【読書メモ】『合理的なものの詩学』第五章

加藤夢三
『合理的なものの詩学――近現代日本文学と理論物理学の邂逅』
ひつじ書房、2019年

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第五章 観測者の使命
―― 横光利一『雅歌』における物理学表象

 1920年代から新感覚派として作家活動を行ってきた横光利一は、1930年前後、新心理主義へと移行したとされる。加藤夢三は、この1930年前後の横光の「転回」に、ふたつのポイントがあったと述べる。
 ❶「心」(内面)を描くという文学的な課題を意識したこと。
 ❷「科学」という概念自体を再検討したこと。

 そして、この❶「心」の問題と❷「科学」の問題が結び合わされつつあった時期の作品として、加藤は1931年の『雅歌』を取り上げる。
 『雅歌』は、のちの「純粋小説」につながる作品だとされているが、加藤が注目するのは、この小説が物理学者を主人公とする「科学者もの」だという点である。

 『雅歌』の主人公である羽根田は、「観測」という行為を物理学的に考察する科学者であり、自らの「心」を「観測」することの原理的な困難に直面することになる。
 この羽根田の困難は、同時代の理論物理学に見られる次のような考え方と、問題意識を共有していると加藤は主張する(149ページ)。

まさに一九三〇年前後の理論物理学においては、観測者は観測対象に何らかのかたちで不可避的に介入せざるをえないといった立場が支配的となっていた。その中枢を占めていたものこそ、W・ハイゼンベルクの不確定性原理に集約されるような量子論・量子力学の学術的知見にほかならない。(下線引用者)


 そこで、同時代の理論物理学におけるパラダイム転換を踏まえて、『雅歌』という小説を再検討してみよう、というふうに加藤は進んでいくのだが、私は、この章全体、あるいは本書全体の論旨にかかわることとして、引用の下線部に、見逃せない問題が含まれていると考える(「不可避的に~せざるをえない」との表現は冗語ではないか、ということは措く)。

 加藤自身も156ページで比較的正確に述べているが、ハイゼンベルクの不確定性原理とは、「電子(のような量子サイズの粒子)の位置と運動量の、両者の不確かさを、同時にある程度以上小さくするのは不可能である」という法則である。
 不確定性原理は不思議で興味深く、また有名なので、いろいろな意味に「解釈」される。特に、「人間が観測しようとすると、電子の情報は不確定になる」というふうに、「観測」にまつわる問題(観察者効果)として「解釈」したがる人が多い。発見者であるヴェルナー・ハイゼンベルク自身も、最初はそのように考えていた。
 しかし、そのような「解釈」は、量子の不確定性に対する理解として不十分であることが、現在はわかっている。人間(主体・主観の側)の観測行為や観測意志がなかったとしても、量子(対象・客観の側)は本質的に確率的なゆらぎをもっており、そこから不確定性が生まれるのである。
 そもそも1927年の段階で、「観測」と関係なく「統計的なバラつき」として不確定性関係を記述する不等式が、アール・ヘッセ・ケナード(1885~1968年)によって発表されている。ハイゼンベルクの不確定性原理は、このケナードの不等式を参照して(誤解も含みながら)作られたものだという。
 「観測者は観測対象に何らかのかたちで不可避的に介入せざるをえない」という「解釈」の不十分さは、1930年代における(一般的な)量子力学解釈の、時代的な限界を示している。その限界を、限界として踏まえることは、このようなテーマの論文にとって、必要なことだったのではないだろうか。何も、難しい「ないものねだり」をしているわけではない。ここに私が書いたようなことを、数行ただし書きすればよかっただけである。

 この章で加藤が述べていることを、大まかにまとめよう。
 1920年代までの横光の「科学」観は、主観と客体を明確に切り分けたうえで、主観が客体を認識するという図式の、19世紀的な考え方であった。その認識論的図式は、客体の運動を科学的に「観測」できるという信頼を支えていた。
 しかし1930年前後、人間の「心理」を描くという課題を意識した横光は、それまでの「科学」観を問い直し、一般的な意味での自然科学とは異なる、「文学のみの科学」なるものの探究に向かう。そこには、20世紀の量子力学と不確定性原理の影響があったことが、『雅歌』の分析からわかると加藤は説く。
 横光は不確定性原理を、自分が直面している難題を示すものとして解釈した、というのが加藤の主張である。では、1930年前後の横光が直面していた難題とは何か。それは加藤によれば、人間の「心」を「観測」の対象としたときに、主観と客体を明確に切り分ける図式が崩れてしまい、「観測」が頓挫する、ということである。加藤は『雅歌』を、「近代自然科学的な主体としての「観測者」が、みずからの特権的な位置(=実験対象を超越的に俯瞰できる視点)を失効していくまでの心的過程を描いた物語」(164ページ)とみなし、そこに横光の「認識論的な葛藤」(166ページ)が解決されないまま表現されていると述べる。

 横光の「認識論的な葛藤」とは、「「心」を「観測」することをめぐる原理的な困難」(165ページ)とほぼイコールの内容だろうが、結局、何がいいたいのかよくわからない。「心」を「観測」することが難しいとして、横光はなぜそれに悩んだのかを論じなければ、あまり意味がないのではなかろうか。
 それ以前にわからないのは、この章の核心のひとつだと思われる、次のような箇所である(159ページ)。

言うまでもなく、そもそも観測者たる主体が、観測対象としての「心」を客観的に記述するという主客二元論的なスキームは、それを問うているみずからの主体形成の条件を問題にせざるをえないという点において、つねにすでに破綻の可能性を忍び込ませている。


 「みずからの「心」を「観測」しようとするジレンマ」(158ページ)という表現もあり、どうも自己言及性のことを述べたいようである。加藤にとって、クルト・ゲーデルの不完全性定理的な問題が関心の中核であることは、本書の終章からもよくわかる。
 しかし、ここはさすがに、あまりに無理筋だろう。横光が不確定性原理を「観測」の問題として(誤って)「解釈」していたとしても、それをさらに加藤が、不完全性定理的な自己言及性の問題として「解釈」することには、正当性がまったくない。不確定性原理は、自己言及性とは無関係だし、むろん不完全性定理とも無関係である。

 この章も辛い評価になってしまい、心苦しい。私も自己言及性については関心があり、安部公房の小説を論じる際、ここでの加藤と同じようなことを意識している。それだけに、論の不備が目についてしまった。
 また、研究論文としては、「科学の概念を文学者が拡大解釈していた」と論じるのはもちろん有効だが、研究者自身が科学の概念を拡大解釈して用いるのは絶対によくないと思う。本書の第一章などを見る限り、そのあたりのことはよくわかっている研究者だと思うのだが。


***目次***

序章 思考の光源としての理論物理学
第一章 「科学的精神」の修辞学 
第二章 「現実」までの距離
第三章 ジャンル意識の政治学
第四章 新感覚派の物理主義者たち
第五章 観測者の使命
第六章 「ある唯物論者」の世界認識 ←次はこちら
第七章 「合理」の急所
第八章 多元的なもののディスクール
第九章 「怪奇」の出現機構
終章 パラドックスを記述するための文学的想像力
補論ⅰ 「存在すること」の条件
補論ⅱ 自己言及とは別の仕方で

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