【読書メモ】『合理的なものの詩学』第六章

加藤夢三
『合理的なものの詩学――近現代日本文学と理論物理学の邂逅』
ひつじ書房、2019年

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第六章 「ある唯物論者」の世界認識
―― 横光利一『上海』と二〇世紀物理学

 この章では、横光利一の長編小説『上海』(1928~1931年)が取り上げられる。『上海』は、もともと「ある唯物論者」という書名になる予定だったが、作中には「唯物主義」(唯物論)以外に、「物理主義」という言葉が見られる。この「物理主義」は、相対性理論を中心とする20世紀物理学的な思考によって支えられ、同時代の「唯物主義」に回収されない多面性をもっていたと、加藤夢三は主張する。「唯物主義」と「物理主義」の違いに着目することで、同時代の科学思想に対して、横光がどのような批評的視点をもっていたかを見定めるのが、この章の目的だとされる。

 1930年前後、新感覚派は、「科学」の権威を自分たちのものにするべく、プロレタリア文学と抗争していた。当時の〈自然科学=人間科学〉というパラダイムのもと、新感覚派の作家の多くは、自然科学の中でも精神生理学を重視していた。
 それに対して横光は、「かくれたるかの大真理」(「文芸時評」、『改造』1930年6月/本書181ページ)を探究する「科学以上の科学」なるものを求め、それは精神生理学ではなく物理学だと考えていた。
 加藤は、横光の探究した「真理」を、「現象」を超えた「物自体」(カント)になぞらえ、一種の超越性とみなす。横光にとって、人間を「物質」としての「身体」に還元する精神生理学は、「真理」に到達する「科学以上の科学」にはなりえなかったと加藤は述べる。一方、横光が石原純を介して受容した相対性理論は、「現象」を超えた法則を明らかにする科学だった。横光は、相対性理論を受容することにより、同時代の精神生理学的な人間観に対する批評性を得たのである。

 加藤によると、横光のいう「物理主義」とは、「現象」だけを見る「唯物主義」(唯物論)を超えて、「物自体」としての「真理」を見すえようとする試みである。20世紀科学のそのようなあり方は、石原純によって「超唯物性」と名づけられている。
 物理学が志向する(とされた)このような超越性は、横光の中で、精神生理学とはまた違う意味での「精神性」につながった。『上海』には、「身体」という語と「肉体」という語の、次のような使い分けが見られる。
 ❶「身体」……「現象」としての「物質」の水準にとどまる
 ❷「肉体」……「物自体」としての「精神」を担う

 『上海』には、「唯物主義者の一歩進んだ物理主義者」(本書174ページ)という表現がある。「物理主義」は、マルクス主義唯物論よりも徹底した唯物論だとされているのである。しかし逆説的なことに、唯物論が徹底されると、「現象」を超越した「物自体」として、「精神性」を求めることになる。そしてこの「精神性」が「国家精神」につながり、ナショナリズムを引き寄せることになったというのが、加藤の主張である。
 さらに1935年の改稿では、上記の「身体」と「肉体」の使い分けが崩される。その書き換えによって、「現象」と「物自体」を分ける理論が忘却され、ナショナリズムへの志向だけが残ったと加藤は指摘する(この指摘は面白いが、十分に論理的に展開されていないのが残念)。


***目次***

序章 思考の光源としての理論物理学
第一章 「科学的精神」の修辞学 
第二章 「現実」までの距離
第三章 ジャンル意識の政治学
第四章 新感覚派の物理主義者たち
第五章 観測者の使命
第六章 「ある唯物論者」の世界認識
第七章 「合理」の急所 ←次はこちら
第八章 多元的なもののディスクール
第九章 「怪奇」の出現機構
終章 パラドックスを記述するための文学的想像力
補論ⅰ 「存在すること」の条件
補論ⅱ 自己言及とは別の仕方で

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