【読書メモ】『合理的なものの詩学』第七章

加藤夢三
『合理的なものの詩学――近現代日本文学と理論物理学の邂逅』
ひつじ書房、2019年

kato2019_07.JPG

第七章 「合理」の急所
―― 中河與一「偶然文学論」の思想的意義

 中河與一は1935年前後、理論物理学と小説創作を、何らかの形で結びつけられないか模索していた。ハイゼンベルクの不確定性原理を中心とする量子力学を取り上げた、「偶然文学論」と呼ばれる一連の評論も、そのような試みの一環である。
 その後、中河は国粋主義的なイデオロギーに傾倒していく。そして戦後しばらくしてから、中河は自身の「偶然文学論」を、「非合理の美学」という表現で語るようになった。そのような表現のせいで、中河の「科学愛好家」としての相貌と国粋主義がどのような関係にあったのか、見えにくくなっている。
 しかし、もともと「偶然文学論」は、「非合理の美学」に回収されない、「脱構築的な戦略」(204ページ)をもって発表されたものだったと加藤夢三は主張する。その思想的射程を確かめるために、「偶然文学論」における量子力学の解釈を、同時代思潮の中に位置づけなおしながら検討するのが、この章の狙いである。

 1930年代の中河の周囲には、「科学」(合理)と「ロマン」(非合理)を結びつけるような「知的浪漫主義」の思潮があり、中河の「偶然文学論」における科学への参照も、この風潮と密接に関係していた。
 ここで加藤が注目するのは、「偶然文学論」の論旨のあいまいさである。そのあいまいさから、「合理」と「非合理」の二項対立に回収されない異質さを読み取れるのではないか、と加藤は述べる。

 加藤によれば、中河は量子力学を、「「合理」と「非合理」双方に回収されえない特異な遊動性を帯びたもの」(211ページ)として解釈した。
 このような量子力学受容によって、中河は、「合理」の側に立つマルクス主義と、「非合理」の側に立つ日本浪曼派の、両方に対する批評性をもったのだと加藤は主張する。その「脱構築的な戦略」には、田邊元(1885~1962年)の哲学との相似性や、シェストフブームとの対照性を見て取れるという。
 論じる加藤は量子力学に、「合理」を突き詰めると「不合理」(因果律の破綻)に転じてしまう、という逆説を見いだしているようだ。「合理」から「非合理」に至るこの回路こそが、1930年代後半以降に知識人たちをナショナリズムへと駆り立てた要因のひとつであることを、加藤は示唆している。

 ここまで、この章の内容を紹介したが、私にはこの章は、レトリックでつながっているだけで、実質的なロジックとしてはもろいものであるように思われてならない。

 加藤は「偶然文学論」の論旨のあいまいさを、「合理」と「非合理」の間をすり抜けて「二項対立図式自体を転倒させてしまう」(214ページ)ような「脱構築的な戦略」だとみなしているが、はたしてそれは妥当だろうか。
 あいまいさとは、「非合理」の側のものではないか。中河は、量子力学という「合理」的であるはずのものを、「非合理」の側に引きずり込んだのだと解釈することもできるだろうし、そのほうが結局は自然なのではないか。

 だいたい、加藤の論を真に受けると、「量子力学は人を国粋主義に駆り立てる論理構造をもっている」という話になってしまうのではないか。これは明らかにおかしい。
 たとえば、「量子力学の難解さに耐えられず、わけのわからない理屈をつけて納得(我有化)したがるような人間は、ナショナリズムにもコロッと参ってしまいがちだ」とか、別の説明の仕方があるはずである。


***目次***

序章 思考の光源としての理論物理学
第一章 「科学的精神」の修辞学 
第二章 「現実」までの距離 ←次はこちら
第三章 ジャンル意識の政治学
第四章 新感覚派の物理主義者たち
第五章 観測者の使命
第六章 「ある唯物論者」の世界認識
第七章 「合理」の急所
第八章 多元的なもののディスクール ←次はこちら
第九章 「怪奇」の出現機構
終章 パラドックスを記述するための文学的想像力
補論ⅰ 「存在すること」の条件
補論ⅱ 自己言及とは別の仕方で

この記事へのコメント