【読書メモ】『合理的なものの詩学』補論i

加藤夢三
『合理的なものの詩学――近現代日本文学と理論物理学の邂逅』
ひつじ書房、2019年

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補論ⅰ 「存在すること」の条件
―― 東浩紀『クォンタム・ファミリーズ』の量子論的問題系

 この章では、東浩紀の長編小説『クォンタム・ファミリーズ』(2008~2009年)が取り上げられる。
 東自身はこの小説を、自分が批評家として提唱した「ゲーム的リアリズム」の実践としてとらえている。「ゲーム的リアリズム」とは、「メタ物語」の水準を置くことで、物語を「並行世界」として複数化するような表現形式である。このとき、「並行世界」としての複数の物語に対して、「メタ物語」の水準はより上位のものとなる。
 「ゲーム的リアリズム」の実践として読まれるとき、『クォンタム・ファミリーズ』は、「あらゆる並行世界を経由しながらも、最終的には唯一の現実世界(=「メタ物語」)へと回帰してしまう」(317ページ)物語だということになるだろう。
 加藤夢三は、そのような解釈が「逆説的にかけがえのないひとつの「生」を志向しようとする実存主義的な解釈」であることを指摘したうえで、量子力学にのっとれば、そのような「メタ物語」の超越性は成り立たないはずだと主張する。『クォンタム・ファミリーズ』は「ゲーム的リアリズム」の理論を越えた射程をもっているというのである。
 では、その射程とはどういうものなのか。
 「〈いま・ここ〉における唯一の秩序体系」(321ページ)に収斂しない、いわば別の現実の可能性を示している、ということを加藤は述べたいのだろう。そのことは、「並行世界における「生」のあり方を、「構造のメタ物語性」を梃子とした「ゲーム的リアリズム」の理念とは別の角度から問いただしていくような思考の可能性」(322ページ)などと記述される。
 しかし、それが何だというのだろうか。あるいは、だから何だというのだろうか。『クォンタム・ファミリーズ』という小説の読みとして、加藤のこの論が何を明らかにしたものなのか、私にはわからない。どんな有効性があるのかもわからない。おそらく多くの読者は、『クォンタム・ファミリーズ』の結末を、「かけがえのないひとつの「生」」に向き合うものとして読むだろうし、そのような読みを加藤の論がくつがえせるとは思えない。

 加藤の論の結末近くには、次のような一文がある(324ページ)。

九〇年代以降の時代精神としての「「私が私であること」の不確定性」をめぐる考察は、もとより人びとを救済するような「メタ物語」などありはしないという端的な事実を引き受けることから始められるよりほかないのである。


 この一文はかなり筋が悪い。「ゲーム的リアリズム」における「メタ物語」と、たとえばポストモダン論においてその終焉が論じられた「大きな物語」とを、意図的に(レトリックの水準で)混同しているのか、あるいは単にその違いがわかっていないのだろうか。「救済」なる言葉を出してくるのも悪手だが、もし文学に「救済」なるものがあるとしたらどういうものなのか、一度くらいは真剣に考えてみたほうがよいかもしれない。


***目次***

序章 思考の光源としての理論物理学
第一章 「科学的精神」の修辞学 
第二章 「現実」までの距離
第三章 ジャンル意識の政治学
第四章 新感覚派の物理主義者たち
第五章 観測者の使命
第六章 「ある唯物論者」の世界認識
第七章 「合理」の急所
第八章 多元的なもののディスクール
第九章 「怪奇」の出現機構
終章 パラドックスを記述するための文学的想像力
補論ⅰ 「存在すること」の条件
補論ⅱ 自己言及とは別の仕方で ←次はこちら

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