【読書メモ】曽田秀彦『小山内薫と二十世紀演劇』(第2章)
曽田秀彦
『小山内薫と二十世紀演劇』
弁誠出版、1999年
(第2章)モスクワの小山内薫
――モスクワ芸術座の衝撃
【2-01】第一次外遊前の小山内薫の演劇観(pp.75, 69)
小山内薫は1907年、ゴードン・クレイグの演劇論を初めて日本に紹介している。
しかし、クレイグの「演劇を芸術にするためには、戯曲は不可欠なものではない」という主張に賛同できなかった。
小山内は1909年、クレイグ流の「人形たれ」という言葉のもとに自由劇場を始めるが、クレイグが「俳優は演出家の人形であれ」と考えたのとは違い、当初の小山内は「俳優は脚本家の人形になるべきだ」と考えていた。
第一次外遊前の小山内は、戯曲のみが演劇創造の主体であり、俳優は創造性のない人形だとみなしていたのである。
【2-02】小山内薫の第一次外遊(p.53)
モスクワ(1912年12月)
ペテルブルク(1913年1月)
ベルリン(ここを拠点にドイツ、オーストリア、北欧各国の劇場を回る)
ストラトフォード(1913年5月)
ロンドン(滞在中、ベルギーのブリュッセルへ行く)
パリ(1913年6月)
ベルリン → モスクワ → 朝鮮半島経由で帰国(1913年8月)
【2-03】モスクワ芸術座(p.53)
【引用】彼は一九一二年の十二月二十六日にモスクワに着いて、その三日後の二十九日、ゴリーキー作『どん底」でスタニスラフスキーがサーチンに扮するのを目にして興奮した。その最初の観劇以後、モスクワを離れる翌 一年一月二十日の二十五日の間、十三回、モスクワ芸術座に通ったのである。見たのは、十二演目。それ以外の劇場では、二演目二回とオペラを三演目三回、バレエ一回(演目は不明)。
【2-04】「20世紀演劇」にふれた小山内薫(p.76)
小山内薫が観たモスクワ芸術座の演目の中には、ゴードン・クレイグとスタニスラフスキーの共同作業による『ハムレット』もあった。
これは、クレイグの愛人だったイサドラ・ダンカンの仲介によって実現した、歴史的な公演だった。
この公演を観た小山内薫は、演劇に対する考え方を根本的に転換する。
【2-05】俳優の創造性を知る(pp.68-72)
スタニスラフスキーは、「俳優は、戯曲から独立した能動的な創造者である」という考えから、スタニスラフスキー・システムを生み出していた(1909年)。
小山内薫は、すでに誕生していたスタニスラフスキー・システムの存在を知らなかったが、モスクワ芸術座の舞台を通してその基本的な考えを直観的に理解し、俳優の創造性に開眼した。
【2-06】役者になりたかった小山内薫(pp.64-66, 72)
小山内薫にとっては、日本の既成の俳優に能動的な創造性を求められるかどうか、疑問だった。
小山内はその疑問を解くため、自分が俳優になろうと決意して帰国し、「役者になるつもりで帰ってきた」と宣言した。
しかし、周囲の人に止められ、小山内は役者を断念。
演出としてゴーリキーの『夜の宿』(『どん底』)を再演した。
【2-07】「技芸の時代に入る」(pp.74-75)
『夜の宿』再演の際の通知状に、小山内は「技芸の時代に入る」と書いている。
これは、旧劇(歌舞伎)の「芸」への妥協だと誤解された。
しかしこの言葉は、小山内薫が第一次外遊でつかんだ、「戯曲」と「演劇」の違い(「演劇」の価値は「戯曲」に従属しない)という「20世紀演劇」の本質を示すものである。
【2-08】小山内薫がモスクワで観なかった芝居(pp.87-61)
ちなみに、1912年12月のモスクワ滞在中、モスクワ芸術座に通い詰めた小山内薫だったが、レオニード・アンドレーエフの作品が上演される日だけは、あまりの人気でチケットが取れず、別の劇場へ行った。
(ちょうどその頃、凋落していたアンドレーエフの人気が再上昇してたいへんな評判になっており、小山内も関心を向けていた)
『小山内薫と二十世紀演劇』
弁誠出版、1999年
(第2章)モスクワの小山内薫
――モスクワ芸術座の衝撃
【2-01】第一次外遊前の小山内薫の演劇観(pp.75, 69)
小山内薫は1907年、ゴードン・クレイグの演劇論を初めて日本に紹介している。
しかし、クレイグの「演劇を芸術にするためには、戯曲は不可欠なものではない」という主張に賛同できなかった。
小山内は1909年、クレイグ流の「人形たれ」という言葉のもとに自由劇場を始めるが、クレイグが「俳優は演出家の人形であれ」と考えたのとは違い、当初の小山内は「俳優は脚本家の人形になるべきだ」と考えていた。
第一次外遊前の小山内は、戯曲のみが演劇創造の主体であり、俳優は創造性のない人形だとみなしていたのである。
【2-02】小山内薫の第一次外遊(p.53)
モスクワ(1912年12月)
ペテルブルク(1913年1月)
ベルリン(ここを拠点にドイツ、オーストリア、北欧各国の劇場を回る)
ストラトフォード(1913年5月)
ロンドン(滞在中、ベルギーのブリュッセルへ行く)
パリ(1913年6月)
ベルリン → モスクワ → 朝鮮半島経由で帰国(1913年8月)
【2-03】モスクワ芸術座(p.53)
【引用】彼は一九一二年の十二月二十六日にモスクワに着いて、その三日後の二十九日、ゴリーキー作『どん底」でスタニスラフスキーがサーチンに扮するのを目にして興奮した。その最初の観劇以後、モスクワを離れる翌 一年一月二十日の二十五日の間、十三回、モスクワ芸術座に通ったのである。見たのは、十二演目。それ以外の劇場では、二演目二回とオペラを三演目三回、バレエ一回(演目は不明)。
【2-04】「20世紀演劇」にふれた小山内薫(p.76)
小山内薫が観たモスクワ芸術座の演目の中には、ゴードン・クレイグとスタニスラフスキーの共同作業による『ハムレット』もあった。
これは、クレイグの愛人だったイサドラ・ダンカンの仲介によって実現した、歴史的な公演だった。
この公演を観た小山内薫は、演劇に対する考え方を根本的に転換する。
【2-05】俳優の創造性を知る(pp.68-72)
スタニスラフスキーは、「俳優は、戯曲から独立した能動的な創造者である」という考えから、スタニスラフスキー・システムを生み出していた(1909年)。
小山内薫は、すでに誕生していたスタニスラフスキー・システムの存在を知らなかったが、モスクワ芸術座の舞台を通してその基本的な考えを直観的に理解し、俳優の創造性に開眼した。
【2-06】役者になりたかった小山内薫(pp.64-66, 72)
小山内薫にとっては、日本の既成の俳優に能動的な創造性を求められるかどうか、疑問だった。
小山内はその疑問を解くため、自分が俳優になろうと決意して帰国し、「役者になるつもりで帰ってきた」と宣言した。
しかし、周囲の人に止められ、小山内は役者を断念。
演出としてゴーリキーの『夜の宿』(『どん底』)を再演した。
【2-07】「技芸の時代に入る」(pp.74-75)
『夜の宿』再演の際の通知状に、小山内は「技芸の時代に入る」と書いている。
これは、旧劇(歌舞伎)の「芸」への妥協だと誤解された。
しかしこの言葉は、小山内薫が第一次外遊でつかんだ、「戯曲」と「演劇」の違い(「演劇」の価値は「戯曲」に従属しない)という「20世紀演劇」の本質を示すものである。
【2-08】小山内薫がモスクワで観なかった芝居(pp.87-61)
ちなみに、1912年12月のモスクワ滞在中、モスクワ芸術座に通い詰めた小山内薫だったが、レオニード・アンドレーエフの作品が上演される日だけは、あまりの人気でチケットが取れず、別の劇場へ行った。
(ちょうどその頃、凋落していたアンドレーエフの人気が再上昇してたいへんな評判になっており、小山内も関心を向けていた)
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