テーマ:原民喜

引用による原民喜紹介

引用による原民喜紹介  この文章は2007年に、原民喜という小説家について調べて書いたものです。  作品からの引用により、原民喜という作家を、そのほんの一面なりとも、紹介しようという目的で書きました。  1905年生まれの原民喜は、1944年に妻と死に別れ、そのほぼ1年後に故郷の広島で原子爆弾を体験しています。  そして…
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引用による原民喜紹介(7)

(7) 地上との別れ  おそらく原民喜自身、『鎮魂歌』において、自分に「課せられているもの」に応えることができたと、感じることができたであろう。  1951年、武蔵野市において、『心願の国』という小説が書かれる。  [……]僕がこんど小鳥に生れかわって、小鳥たちの国へ訪ねて行ったとしたら、僕は小鳥たちから、どんなふうに迎え…
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引用による原民喜紹介(6)

(6) 『鎮魂歌』  『鎮魂歌』は、戦後の焼け跡――「息をするのもひだるいような、このふらふらの空間」――を彷徨う「僕」が、死者たちを想うところから始まる。 自分のために生きるな、死んだ人たちの嘆きのためにだけ生きよ。僕を生かしておいてくれるのはお前たちの嘆きだ。僕を歩かせてゆくのも死んだ人たちの嘆きだ。お前たちは星だった。…
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引用による原民喜紹介(5)

(5) 試行錯誤と使命  その試行錯誤を、まずは『夏の花』から見てみよう。  この小説は、原子爆弾の一撃を受けた「私」(原民喜自身とおぼしき主人公=語り手)からの一点描写が、ほぼ全編に渡ってエクリチュールを駆動してゆく(本稿の前節「原子爆弾」の最初に引用した、小説の冒頭部分参照)のだが、小説の最後に来て、奇妙な一節が現れる。…
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引用による原民喜紹介(4)

(4) 原子爆弾  私は街に出て花を買うと、妻の墓を訪れようと思った。ポケットには仏壇からとり出した線香が一束あった。八月十五日は妻にとって初盆にあたるのだが、それまでこのふるさとの街が無事かどうかは疑わしかった。恰度、休電日ではあったが、朝から花をもって街を歩いている男は、私のほかに見あたらなかった。その花は何という名称なのか知…
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引用による原民喜紹介(3)

(3) 病妻との共生と死別  1937年(昭和12年、32歳)、廬溝橋事件勃発。  日中戦争が開始される。  [……]あの常に脅かされていたものが遂にやって来たのだ。戦争は、ある年の夏、既にはじまっていた。彼はただ頑な姿勢で暗い年月を堪えてゆこうとした。が、次第に彼は茫然として、思い耽けるばかりだった。幼年時代に見た空の青…
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引用による原民喜紹介(2)

(2) 青年時代  1923年(大正12年、18歳)頃、詩作を始めるとともにロシア文学などを耽読。  同人雑誌に参加。  1924年(大正13年、19歳)、上京し、慶應義塾大学文学部予科に入学。  同級の山本健吉(評論家となる)と親しくなり、ともに小山内薫の築地小劇場の旗揚げ記念講演を三田の講堂へ聴きに行く。  俳句を…
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引用による原民喜紹介(1)

(1) 生い立ち~少年時代  1905年(明治38年)、広島県広島市に生まれる。  生家は陸海軍・官庁用達の原商店。  「民喜」の名は戦争に勝って民が喜ぶというところからきているという。  1917年(大正6年、12歳)、父が死去。  翌1918年(大正7年)には最も慕っていた姉ツルが亡くなり、精神的な打撃を受け、非常…
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