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zoom RSS 【読書メモ】『私という小説家の作り方』

<<   作成日時 : 2012/03/08 18:52   >>

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大江健三郎『私という小説家の作り方』(新潮文庫)再読。

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昨日読んだ『小説のたくらみ、知の楽しみ』から10年以上経過して(1998年発表)、『燃えあがる緑の木』を書いた後の大江さんが、再び自分の仕事のしかたについて書いた長編エッセイです。

『小説のたくらみ、知の楽しみ』が、核の脅威をひとつのテーマとして状況論的なものを多分に含んでいたのに対し、
こちらは自伝的な要素がずいぶん大きいです。

四国の谷間の村での幼年時代、柿の若葉が絶えず揺れていることを「発見」したエピソード、
赤玉ポートワインを飲みながら村の神話を語り聞かせてくれたお祖母さんのエピソード、
『ニルスの不思議な旅』や『ハックルベリイ・フィンの冒険』を読ませてくれただけでなく、ダンテの『神曲』についても奇妙な手ほどきをしてくれたお母さんのエピソード、
ウォークマンで音楽を聴くように、英語の詩を暗記してはそれに自分なりの訳をつけて楽しむという、大江さんの趣味のエピソード……。

後半、第七章あたりから、自伝的なまとまりがゆるくなり、内容もやや隔靴掻痒な感じもしますが、
長い作家生活の「後期」に入ろうとしている(「最後の小説」だと自らさかんに言っていた『燃えあがる緑の木』を書いた後、もう一度小説家の仕事に戻って来て)大江さんが、自分のそれまでの仕事をどう捉えていたのかが分かりますし、
この本を読んでいると、「あっ、ここで言及されてるこの小説、(もう一度)読みたいな」と思わされます。

再読ですが、眼から鱗な箇所もたくさんありました。
そのうちのひとつが、大江さんの「ロマンティシズム」の定義であり、それに伴って言及された、自らの社会参加についての総括です。

大江健三郎といえば、文学者の社会参加(大江さんの尊敬するサルトルの言葉で言えば、「アンガージュマン」です)、政治的発言の筆頭、みたいなイメージがありますが、それなのに大江さんは、
「そもそも私は、初めから、自分の同時代に対する発言が、実際的な成果をあげることをめざすことはできなかった」
と書いています。あの大江さんが!

「私が参加するいちいちの行動に力をそそがなかったというのではない。それらはつねに自分にとって大仕事であった。それでいて、私はどんな現実の行動に参加する際にも、わずか前に書斎から出てきたというふうであり、集会で講演をしたり、デモに加わったりする間も、つねに、すぐにも書斎に帰ろうとする男の様子をしていたのではあるまいか?」
……このように反省した後で、大江さんは、
「そうした現実社会への行動から、私はなにほどか自分の「文学」のために収穫をともなって書斎に戻ってきた、とも思う」
と述べます。
「本妻も文学、情婦も文学」と開高健からからかわれたほどの大江さんは、自分のアンガージュマンの中で、「文学のパン種」をこそ膨らませていたのだ、と言うのです。

そして、その流れで、大江さんは「ロマンティシズム」の話をします。

大江さんにとっての「ロマンティシズム」とは、「この世界をひとつにまとめて把握したい」という情熱のことであるようです。
(それは、『小説のたくらみ、知の楽しみ』で語られた、「人間存在の不滅性の顕現」にも繋がります)
大江さんは「ロマンティシズム」を、「文学の歴史につねに底流としてあるものが地上に噴出してくる現象」であると捉え、「作家が長篇を書き進める際の根本的な衝動としてロマンティシズムがある」とも言います(これは僕も完全に同意)。

このあたりの理路が曖昧なのですが、
どうやら大江さんは、自分の(おもに若い頃の)政治的行動(アンガージュマン)と自分の文学とを、この「ロマンティシズム」から生まれたものとして説明し、しかも政治行動も文学も、この「ロマンティシズム」の中で溶け合うようなイメージを持っているようです。
そして「ロマンティシズム」は根本的には文学寄りの概念ですから、
乱暴に言ってしまうと、大江さんの言う「ロマンティシズム」は、文学至上主義とほぼイコールです。

――私は人間の魂の問題を小説という形で探究する文学者である。私の政治的行動は直接的には効果をあげないかも知れないが、そこで沈黙せず行動することには意味がある。なぜならば、私の問題と、社会の問題と、宇宙的な問題はつながっているからだ(これが「ロマンティシズム」)。私は、自分の政治的行動の経験をもとに、よりよい文学を作ることができるかも知れない。そうなれば、その文学にふれた多くの人の魂を、救うことができるかも知れないのだ。それこそが私の考えうる、私にとって最高の仕事である。――

敢えてあけすけに書くと、以上のようなことではないでしょうか。

僕は、僕以外の誰か個人がこのような思想を持つことは悪いことだとは思いませんし、
大江さんほど圧倒的な力のある小説家にとって、ふさわしい考え方じゃないかなとも思います。

ただ、僕は、個人の問題と社会の問題と宇宙論的な問題がひとつに繋がるのは、芸術作品の中、あるいは個人の想像力の中でだけだと思っていて、
それとはまったく別個のものとして社会があり、社会の問題は社会の問題として即物的に解決していくのがいいんじゃないかと思っていますので、
大江さんの考え方に、完全に同意できるわけではありません。
そもそも、大江さんと僕では「ロマンティシズム」の定義からして、けっこう異なっているので……。

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