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zoom RSS 【読書メモ】『カラマーゾフの兄弟』

<<   作成日時 : 2012/04/05 21:04   >>

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ドストエフスキー『カラマーゾフの兄弟』(原卓也訳、新潮文庫)読了。

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この大作を前に読んだのは、中学3年生の夏休みで、3日間ほかに何もせずに一気に読みきった思い出があります。
それ以来の再読なので、ほぼ17年ぶり。
今年は『罪と罰』『白痴』『悪霊』と再読してきたのですが、この『カラマーゾフの兄弟』でいったん、ドストエフスキー期間は終わりにしようと思います。

19世紀後半のロシアの、ある一面を象徴するようなカラマーゾフ家の男たちを中心に、三面記事的なスキャンダルや殺人事件を描き、社会の根拠や神の問題にまで迫った、世界文学史上最高といわれる名作です。

欲望の権化のような初老のフョードル・カラマーゾフを父に持つ三兄弟、ドミートリイ、イワン、アリョーシャが、「カラマーゾフの兄弟」です。
長男ドミートリイ(ミーチャ)は、「あるがままのロシア」を表していると評される人物であり、放蕩者で、激しやすく、感動しやすい人物です。
次男イワンは「ヨーロッパ主義」を表していると評され、おそろしく頭が良く、神経が尖りきっています。
三男アレクセイ(アリョーシャ)は、「民衆の原理」に密着した生き方を求めている人物で、天使のような青年であり、修道院に出入りしていました。
またこのほかに、フョードルの私生児と噂されるスメルジャコフという若者がいて、彼はフョードルやイワンの影響で、他人に対する軽蔑やシニシズム、ニヒリズムを抱えています。

これらの男たちが、女や金をめぐっていさかいを起こし、神や社会をめぐって論争し、そのうちにフョードルが何者かに殺されます。
そしてドミートリイに嫌疑がかかり、裁判が行われ……というのが、『カラマーゾフの兄弟』のストーリーです。

序盤は、個性豊かな登場人物たちのとんでもない行動にしばしば笑いを誘われ、
中盤は、異常な興奮状態にあるドミートリイの行動に、ハードボイルド小説でも読んでいるようにゾクゾクし、
終盤は、「誰がフョードルを殺したのか」というミステリーみたいにもなり、
とにかく、ただ読んで面白い、止まらない小説です。
しかもそこに、病気の少年のエピソードや貧しい人の暮らしの描写など、涙なくしては読めない場面が盛り込まれたり、
有名な「大審問官」のエピソードなど、深遠なテーマを掘り下げる場面が出てきたりするのです。

とまあ、言わずもがなな紹介はこれくらいにして、僕が今回読んで考えたことをいくつか書きます。

(1)「ロシア」

ドストエフスキーの小説には、「ロシア」について直接言及する箇所が、もう数え切れないくらいに出てくるのですが、『カラマーゾフの兄弟』もその例外ではありません。
たしか、「ほかならぬロシアこそが世界の救い主になるのだ」といった、謎めいたテーゼも提出されます。
ドストエフスキーがこういうふうに用いる「ロシア」という語が、どういう意味を指し示しているのか、僕にはずっと謎だったのですが、
裁判のシーンで、検事がロシアの広大さに言及したところで、ふと思いました。
ドストエフスキーの「ロシア」とは、人間の「無意識」のことなのではないか。
もうちょっと丁寧に言うと、
ドストエフスキーにとって、あまりに広大すぎるためにところどころに深い暗黒を抱え込んだ「ロシア」とは、「無意識」の対応物、「無意識」をイメージさせるものだったのではないか。

もしもドストエフスキーの「ロシア」が、民衆とか大地とかのことであったなら、「ロシアからしか救いは生まれない」という謎めいたテーゼは、単なる愛郷精神やナショナリズムと同じになってしまいます。
「フランスやドイツじゃいけないの?」「あんたがロシア人だからそう言ってるだけじゃないの?」と言われても反論できません。

そうではなくて、ドストエフスキーはたぶん、ロシアの広大さと深い闇を、文学的な比喩の水準で、「無意識」に結びつけて小説を書いていたのだと思います。
本人がそれを、どれだけ自覚的にやっていたのかは分かりませんが(それこそ「無意識」にやっていたのかも知れません)。
試しに、ドストエフスキーの小説で「ロシア」という単語が出てきたときに、それを「無意識」に置き換えて読んでみてください。
……もちろん、表面的な意味は通らなくなりますが(笑)、なんだか納得できる気もしてきます。という仮説。

ドストエフスキーはフロイト以前の人間ですが、彼の小説には、精神分析的な洞察がはっきりとみとめられます。

欲望の権化のようなフョードルから、「あるがままのロシア」を体現するドミートリイ、「ヨーロッパ主義」のイワン、「民衆の原理」のアリョーシャが生まれた、というのも、精神分析的には興味深いところではないでしょうか。
つまり、カラマーゾフ家というのは、人間の「心」のことだ、というような読み方もできるかも知れません。

(2)「大審問官」と『罪と罰』

イワンの語る「大審問官」のエピソードは、『カラマーゾフの兄弟』の中でいちばん有名ですが、これは小説論的にも興味深いものです。
「大審問官」は、イワンが構想した叙事詩のあらすじという形で語られます。
これが「小説」ではない、というところがミソです。

イワンは「大審問官」のラストについて、「こんな結末にするつもりだったんだ」と言い、キリストが大審問官にキスをする、という場面を語ります。
これは一種の「シミュレーション」です(まだ書いていない叙事詩の、まだ語っていないラストについてシミュレートしている)。

ドストエフスキーで「シミュレーション」というとき、思い出されるのは、『罪と罰』のラストです。
『罪と罰』のエピローグを、僕は「シミュレーション」として解釈しています。
『罪と罰』のドストエフスキーは、ラスコーリニコフの改心を「本編」の中で描くことができず、
「こんな青年の心に、もしも救いが訪れるとしたら、長い時間の経過の末に訪れることになるだろうから、生活しながら辛抱強く待つしかないね、たとえばこんなふうに……」
といった感じで、「シミュレーション」としての「エピローグ」を書いたのです。
だから『罪と罰』のエピローグは、一筆書きのようにあっさりしているのです。
この解釈には自信があります。

さて、イワンはラスコーリニコフの後継者のような登場人物であり、彼の「神がなければすべてが許される」という恐ろしいテーゼは、ラスコーリニコフの思想と通じ合っています。
そんなイワンの語った「大審問官」は、『罪と罰』のミニチュア版というか、リプライズのようなものなのではないでしょうか。
「シミュレーション」としてのキリストのキスは、『罪と罰』のエピローグのラスコーリニコフの改心に対応しています。
ドストエフスキーは、ちゃんと小説として決着をつけられなかった『罪と罰』のリベンジをするために、わざわざ『罪と罰』を思わせる「大審問官」を『カラマーゾフの兄弟』の中に埋め込み、『カラマーゾフの兄弟』という小説の力でそれを乗り越えて、「キリストのキスのような(ラスコーリニコフの改心に匹敵する)奇跡」を実現させようとしたのだと思います。

(3)失敗作の敵討ち?

『罪と罰』だけではなく、『白痴』や『悪霊』の面影も、『カラマーゾフの兄弟』の中にちらついています。
やや影の薄い主人公アリョーシャは、『白痴』のムイシュキン公爵を思わせますし、
イワンの思想や言動を曲解したスメルジャコフがフョードルを殺す、というのは、『悪霊』のステパン氏(1840年代リベラリスト)とピョートル(1860年代以降のリベラリスト)の関係を彷彿とさせます。
僕はドストエフスキーの大長編を、どれも「メチャクチャ面白いけど小説としてはぶっ壊れている、偉大すぎる失敗作」だと思っています(今年読み返してはっきりとそう思いました)が、ドストエフスキー自身、『カラマーゾフの兄弟』で仇を討とうとしているように思われました。

では、『カラマーゾフの兄弟』は結局どうだったのか。

残念ながら、またもや「メチャクチャ面白いけど小説としてはぶっ壊れている、偉大すぎる失敗作」になっていた気がします。
何系列ものストーリーが、結局のところテーマ的に焦点を結ばず、バラバラに散らかっているからです。
主人公が3人もいるのがよくなかったのかも知れません。

各エピソードは非常に面白く、病気の少年イリューシャのシーン、ドミートリイのアクションシーン、イワン対スメルジャコフのシーン、超敏腕弁護士のシーンなど、読んでいるときは「こんなに面白い小説はない!」と叫びたくなるほど興奮するのですが、
「神がなければすべてが許される」というテーゼに対して、小説の力が奇跡的な勝利を収めることができたのか、というと、そんなことはなかったのでした。

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