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zoom RSS 【読書メモ】『百年の孤独』

<<   作成日時 : 2012/04/30 08:04   >>

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ガブリエル・ガルシア=マルケスの『百年の孤独』(鼓直訳、新潮社)、再読。

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コロンビアの作家ガルシア=マルケスが、1967年に発表した長編小説で、20世紀後半のラテンアメリカ文学ブームの中心に位置する大作であり、ガルシア=マルケスは後にノーベル文学賞を受賞しています。

マコンドという架空の町の歴史を、町の創始者の一族(ブエンディーア家)の年代記として、ほぼ100年に渡って書き切った小説です。
空飛ぶ魔法の絨毯が出てきたり、死んだはずの人が生き返ってきたり、不眠症のせいで町じゅうの人が記憶喪失になったり(これは後に寺山修司が堂々とパクりました)……と、きわめて荒唐無稽な出来事が「これでもか」というほど大量に詰め込まれているのですが、
「南米の奥地なら、もしかしたらこういうこともありえたのかも知れないなあ」と思わされてしまうような説得力のある(「マジック・リアリズム」などと呼ばれます)、強烈に面白い作品です。

僕はこの本を高校1年生くらいのときに読んでいて、今回は約15年ぶりの再読でした。
去年の終わりに同じ作者の『族長の秋』というもうひとつの代表作を読んで、『百年の孤独』も読み直したいなあと思っていたのです。
『族長の秋』も、ハチャメチャなエピソードのオンパレードで、けっこう面白く、また手法も凝ったものだったのですが、
比べてみると、『百年の孤独』のほうがパワーの点でも陰影の深さの点でも上であるように思います。
少なくとも、僕は『百年の孤独』のほうが好きです。
というか、面白さという点で『百年の孤独』以上の小説ってあるのかな? というのが、今回読み直しての正直な感想。

これまた同じガルシア=マルケスの『予告された殺人の記録』という中編小説を、僕は常々「完璧な小説」と呼んでいて、その小説は短いぶんだけ緊密に書かれており、まるでダイヤモンドのように輝く作品なのですが、
非常に長大な『百年の孤独』には、何十トンもある金塊が読者に向かって転げ落ちてくるような、物量的な迫力があって、やはり『百年の孤独』のほうが上かなあと思います。

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こういうページが300ページもありますから、いまの文庫本に換算すると900ページくらいになるのではないでしょうか。

で、そんな長い物語の中で、ブエンディーア家の人々が何代にも渡って登場してきます。
厄介なことに、ブエンディーア家の人たちは、男の子が生まれたら「ホセ・アルカディオ」か「アウレリャーノ」としか名前をつけません。
また、婚姻関係がひどく入り組んでいるので、誰と誰がどういう関係だったのか、読んでいるうちによく分からなくなってきます。
何十年越しで同じモチーフが出てきたり、登場人物が昔のことを回想したりするので、そのたびに前に戻って読み返し……とやっていれば、油絵の具を塗り重ねるようにしてマコンドの歴史への理解は深まってゆきますが、
そんな読み方はとても時間がかかりますし、「どうしてこんな架空の町の歴史への理解を深めなきゃいけないんだ?」という疑問も湧いてくるかも知れません(笑)。
でも、毎ページ毎ページ、必ず面白い小説ですし、ラストの章を読む段になると、300ページ読んできたことへの嬉しいボーナスをもらった気分になるでしょう。

  ・歴史の推移について

マコンドとブエンディーア家の100年を振り返ると、
序盤はまるで神話のような、おおらかな笑いと驚きに満ちた時代で、登場人物も桁外れの大きさを持っています。
中盤の、アウレリャーノ・ブエンディーア大佐の戦争くらいから、神話的な町に現実的な政治が介入してきて、マコンドが少し世俗化されます。
アウレリャーノ大佐の持っていた「反乱」の資質は、のちにホセ・アルカディオ・セグンドに受け継がれますが、この人物は大佐ほどのスケールは持っておらず、バナナ会社の労働争議をめぐる虐殺事件以降、屋敷の奥に引きこもります。
5年間降り続く雨のあたりで、政治を中心的モチーフのひとつとしていた中盤は終わり、終盤に移っていくのですが、終盤では長生きしていた人物たちがつぎつぎに死んでゆき、なんだか卑小なキャラクターたちに主人公の座が譲り渡されたような感じです。
特に終盤の主人公である私生児のアウレリャーノは、社交性をほとんど持たない引きこもりです。
(このアウレリャーノが叔母にあたるアマランタ・ウルスラとともに荒れ果てた屋敷で暮らす様子は、安部公房の『箱男』の終盤を思わせるものでした。)
マコンドの町はさびれ、ブエンディーア家にもほとんど人がいなくなり、寂しく悲しい結末に向かってゆきます。
100年の架空の歴史は、神話→政治→個人というふうに世俗化と卑小化の道をたどったのでしょうか。

  ・文体について

『百年の孤独』の、文章のすすめ方は独特です。
一文に(従属節みたいな形で)盛り込まれた情報量が多く、そのうちのいずれかの要素が次の文に取り上げられて展開され、さらに同様に次の文へと続いてゆきます。
句点で立ち止まらず、次の文への踏み出しがすでになめらかに始められている感じです。
別な喩え方をするなら、少しずつドリブル(→一文の情報量)しては見事にパスを回し(→フォーカスのなめらかな移動)、停滞せずに敵陣へ雪崩れ込んでゆく、華麗なサッカーのような文体です。
一文の情報量が多いのに把握しやすいですし、話題の中心の入れ替わりに無理がありません。
相当の名人芸だと思います。

また、「結論で読者の心をつかみ、その後でじっくり説明する」というパターンが多い。
例えば、「Aが〜によって死んだのは、Bが……していたときだった」みたいな文章がいきなり出てきて、
読者は「えっ、Aが死んだの!?」と驚くと同時に、「〜によって死ぬってどういうこと!?」とも驚かされますし、「えっ、Bが……したの!?」とも驚かされます。
こうやってつかんだ後に、ちょっと時間を遡ってそれぞれの説明をしてゆくのです。

その感じは、高校の世界史の教科書(?)とかに似ているかも知れません。
たとえば、中国史をしばらくやった後、「その影響でヨーロッパでは〜になった。なぜならそれ以前のヨーロッパでは……」と語るような、そういう順序だなあと思いました。

『百年の孤独』の冒頭は、

長い歳月がすぎて銃殺隊の前に立つはめになったとき、おそらくアウレリャーノ・ブエンディーア大佐は、父親に連れられて初めて氷を見にいった、遠い昔のあの午後を思い出したにちがいない。


というすばらしい文章です。
この文章の後、「アウレリャーノ・ブエンディーア大佐」が「父親に連れられて初めて氷を見にいった、遠い昔のあの午後」が語られるまで10ページ以上のいろんなエピソードを読まされますし、「銃殺隊の前に立つはめになったとき」のことを読むには100ページも先へ行かなければならないのです。

ちなみに。
上の引用文と同じ構文は何度も執拗に繰り返されますが、小説全体の真ん中あたりのある章が、

アウレリャーノ・セグンドは長い月日がたった臨終の床で、初めての子を見に寝室へはいっていった、あの雨の降る六月の午後を思い出したに違いない。


というそっくりな文章から始まっていることが、とても面白いと思いました。
まるで、ここまでのアウレリャーノ・ブエンディーア大佐を中心にしたサイクルが閉じて、新しくアウレリャーノ・セグンドを中心とするサイクルが始まったような。


『百年の孤独』は本当に面白い小説で、特に最後のあたりの「ああ、もうすぐ読み終わってしまう……」という悲しみと重なるような寂しい展開や、時間と記憶をめぐる超弩級の力業など、ぐうの音も出ないほど打ちのめされました。
まだまだこの小説について語りたいのですが、これくらいにしておきます。

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