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zoom RSS 『燃えつきた地図』について

<<   作成日時 : 2012/12/01 13:11   >>

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 もう20年近く前、『燃えつきた地図』を初めて読んだ、その文庫本をいまも持っています。
 ぼろぼろのカバーはセロハンテープで無理やりに補修されており、紙は褪色と手垢で黒ずみ、どのページを開いても無秩序な書き込みがあって、はがれたページもセロハンテープでとめてあります。
 まっさらな気持ちで読みたいときには、全集で読むか、別にもう一冊買った文庫で読むのですが、ただパラパラと読むときには、何度も読んでは書き込みをくり返してきた1994年の第21刷を、つい手に取ってしまいます。

 私は中学生の頃から、安部公房の作品の中でも特にこの『燃えつきた地図』に愛着を持っていて、ことあるごとに持ち歩いては読み返していました。
 この愛着はいったい何なのだろうと考えてみるに、私はずっと、この小説の中に描かれた風景が好きだったようです。


 『燃えつきた地図』は1960年代の、東京と思われる都市を舞台にした小説です。安部の他の長編小説を見ても、ここまで都市を描写した作品はありません。

 私は1980年に地方で生まれ、地方都市の郊外にある団地で育ったのですが、90年代半ば頃に『燃えつきた地図』を読んでいると、そこに描かれている30年ほど前の都市の風景が、自分の生活する環境と、非常に近いもののように感じられました。
 『燃えつきた地図』の中のくすんだ風景は、私にとって、妙に居心地の良いものだったのです。

 この感覚を「リアルさ」と呼んでもかまわないのでしょうが、その後上京し、『燃えつきた地図』の時代からは大きく変わってしまっているはずの東京で生活するようになっても、私の愛着は薄れませんでした。
 そうしていまでは、『燃えつきた地図』を読むとき、はっきり「懐かしい」と感じます。

 私にとって、『燃えつきた地図』の風景は、ほとんど故郷のようなものなのでしょう。
 安部自身は、故郷というものに対して冷徹な距離をとろうとし続けた作家でしたが、80年代から90年代まで地方で育った私という読者にとっては、皮肉なことに、安部の描いた60年代の都市が、故郷の代理になってしまったのです。
 いまも『燃えつきた地図』を読み、その作品世界の中に身を置くと、かつて暮らしたあの団地や、地方の小さな町の空気を吸っているような、変に懐かしい気分にさせられます。

 以上のような個人的にすぎる感慨はさておき、長編小説としての完成度という点でも、『燃えつきた地図』は安部公房の最高傑作であろうと、私には思われます。

 中期の安部公房の代表的な長編小説、『砂の女』、『他人の顔』、『燃えつきた地図』、『箱男』、『密会』は、小説の条件を問う小説である、という共通の特徴を持っています。
 言い方を換えると、「なぜこの出来事はこのように記述されうるのか」、「なぜこの出来事はこのような形式でしか記述されえぬのか」という問題が、たいへん厳密に追究されていった、ということです。
 そして、この小説論的な問題設定は、個々の作品においてそれぞれのストーリーと、固有の形で結びついています。
 私は2006年に、このような視点から『燃えつきた地図』を含む中期の長編小説について論じていますので、詳しくはそちらをご覧いただければありがたいのですが( http://42286268.at.webry.info/200603/article_1.html )、『燃えつきた地図』はこの視点から見て、小説としての完成度がひときわ高く感じられるのです。

 『燃えつきた地図』とは、どういう小説でしょうか。それは、極限的な探偵小説です。

 一般に探偵には、依頼された件について手がかりをまとめて推理をし、事件の解決または説明を果たすことが求められます。
 また、探偵が仕事としての調査に私情を挿むことは許されません。これが、探偵小説の主人公たる探偵に課せられたルールです。

 しかし、『燃えつきた地図』においては、探偵である「ぼく」は探偵としての役目を果たせず(失踪した「彼」に関する手がかりがまとまらず、推理も焦点を結ばず、説明が果たせない)、探偵としてのルールを破ってしまい(依頼人である「彼女」に対して過剰な欲望を抱く)、ついには探偵でいられなくなってしまいます。
 『燃えつきた地図』は、探偵小説の主人公が探偵小説の主人公でいられなくなる、という事件を描いた探偵小説なのです。

 また、『燃えつきた地図』は、極限的な一人称小説でもあります。

 一般に、小説の語り手は、ストーリーに絡んでくるさまざまな要素を意味づけて、しっかりした統辞を持つ文章の中に定着させる、という義務を負っています。
 しかし『燃えつきた地図』の語り手である「ぼく」は、自分に対して現象する物事を明快に意味づけることも、<主語−述語>という枢軸を持つ統辞の中に定着することもできず、体言止めと「……」を多用した形で知覚を垂れ流すばかりです。
 「ぼく」は、小説の語り手としてのルールを守ることもできないわけです。

 その結果、「ぼく」は小説の大詰めで、記憶喪失に陥ります。
 長編小説の最後に、語り手が記憶を喪失する、というのは、小説論的には非常に興味深い事態ではないでしょうか。
 読者は、それまで語り手が語ってきたことを、すべて読んで知り、記憶もしているのです。
 何も知らず、記憶を持たないのは、語り手の「ぼく」だけなのです。
 「ぼく」が失った記憶とは、小説論的には、「ぼく」が語り手として積み重ねてきた語りそのものだといえるでしょう。
 前の場面まで語り続け、小説そのものを生産し続けてきた語り手自身が、自分の生産した小説から疎外される。
 この出来事は、語り手としてのルールを守れなかった「ぼく」が、小説の語り手としての資格を剥奪された、ということを意味しています。
 『燃えつきた地図』は、小説の語り手が小説の語り手でいられなくなる、ということの語られる一人称小説なのです。

 「ぼく」は探偵としてのルールを守れないため、探偵でいられなくなる。
 また、語り手としてのルールも守れないため、語り手でもいられなくなる。
 探偵小説としての極限への漸近および踏み越えと、一人称小説としての極限への漸近および踏み越えが、平行的に進行するのが、『燃えつきた地図』という小説です。

 以上のことを確認するだけでは、しかし、十分に読めたという手応えを感じられないでしょう。
 探偵小説、および一人称小説としての、ルールが問題となっていることは分かった。
 「ぼく」がルールを守れなかったことも読み取れた。
 では、なぜ「ぼく」はルールを守れないのか? なぜルールが問題になるのか? 
 ――こう問わなければ、小説を読むという行為は、作者によって設定されたルール内でのゲームにすぎなくなってしまいます。

 そこでまず、「ぼく」がなぜ探偵としてのルールを守れなかったのか、ということについて考えてみましょう。

 『燃えつきた地図』には、「都会――閉ざされた無限。けっして迷うことのない迷路。すべての区画に、そっくり同じ番地がふられた、君だけの地図。/だから君は、道を見失っても、迷うことはできないのだ」というエピグラムが付されています。
 この警句の後半を解釈すると、次のようになるのではないでしょうか。

 現代の都市に生きる人間は、みな本当は、自分の生の根拠を失い、自分がどこへ行くべきなのか、どこへ帰るべきなのか、はっきりと分かっていない。
 しかし、そのような不安を直視することは耐えられないので、普段はみな、自分が道を見失っていることに気づかぬふりをして、当たり前のように目的地へ行き、当たり前のように家に帰り、ということをくり返している。

 「ぼく」もまたそのように、道を見失っていることに気づかぬふりをして生活していたわけです。
 しかし、このような欺瞞からはボロが出ます。
 自分の生自体に、何の根拠も見いだせず、何の確信も持ちえていないことに、気づかされるときが来ます。
 探偵としての仕事に失敗し続ける過程で、「ぼく」は本来の不安にじわじわと気づいてゆき、ついに記憶喪失の場面において、根拠のなさ、確信のなさが全面化するわけです。

 「ぼく」が探偵としてのルールを守れなかったことの理由は、このような側面から説明されるべきでしょう。
 自分の道を正しく知っているかのような欺瞞の中で生きることを、当たり前だと思い込んでいる間は、「ぼく」は探偵という社会的な役割に安住することができますし、そのルールにのっとって、本当に道に迷った失踪者を捜すこともできます。
 しかし、思い込みの皮を一枚剥がせば、「ぼく」自身の日常も不確かなものであり、知っている道などほとんどないのです。
 そして、これは「ぼく」だけの問題ではありません。
 現代の都市で生活するとは、本質的にいって、このような不安とともに生きることなのです。

 また、なぜ「ぼく」は、語り手としてのルールを守れなかったのでしょうか。
 それは、そもそも語り手という立場自体が、世界認識のあり方として不十分なものだったからです。
 当たり前のように<主語−述語>を中心とした統辞を構成し、出来事を既成の意味の枠組みに押し込み続け、それで小説一本ぶんを語って事足れりとする、そのような語り手の姿勢では、都市化した現代の世界を捉えきれない――そのように安部公房が考えたからです。

 つまり、探偵という立場にも、語り手という立場にも、「こうあるのが当たり前だ」という思い込みによる盲点があったのです。
 その盲点を抱えたままでは、人間はいつか都市の中に飲み込まれ、自分を失ってしまう、というのが安部の警告だったと言えます。

 これだけではありません。
 『燃えつきた地図』の素晴らしさは、小説が警告だけに終わっていないところにあります。

 小説の最後の段落で、「ぼく」は自動車に轢かれた猫の死骸を見つけます。
 「無意識のうちに、ぼくはその薄っぺらな猫のために、名前をつけてやろうとし、すると、久しぶりに、贅沢な微笑が頬を融かし、顔をほころばせる」。

 これは、<主語−述語>という統辞の枠組みに世界を切り取って意味を固定すること(一般的な小説の語り)でも、普通名詞の体言止めと「……」によって知覚を垂れ流すこと(『燃えつきた地図』という小説をここまで構成してきた語り)でもない、出会ったものにそのつど固有名詞を当ててゆくような、まったく新しい語りの可能性を示唆する一節です。
 小説の語りとは、そのまま世界認識のことでもあります。
 ひとつひとつの物事を、どれも唯一の存在、唯一の出来事として受け止め、取り換えのきかない関係を結んでゆく――人間と世界との関係は、そのようなものであるべきだ、というポジティブな認識が、小説の最後で獲得されているのです。
 シビアでほとんど絶望的な現実洞察の中から、これほどポジティブな希望をつかみ出せている小説は、安部の他の作品の中でも、『砂の女』くらいでしょう。
 非常に感動的な結末です。

 このように考えてくると、「ぼく」が探偵としても語り手としてもルールを守れなかったことは、『燃えつきた地図』という小説全体にとって、ネガティブなことではないのだと思えてきます。
 そもそも、既成のルール自体が無根拠なものであり、その有効性には限界がありました。
 そんなもので人間を縛ろうとしても無理であって、人間は純粋な探偵にも、純粋な語り手にも、なれはしないのです。

 純粋な語り手、ということについて、少し述べておきますと、探偵としての「ぼく」を特徴づける小道具に、自動車と報告書があります。
 「ぼく」はまるで移動式シェルターのような自動車に乗って行動しながら、調査の報告書を書いてゆきます。
 自動車の中で報告書を整理する場面もあります。
 自動車は、他人の視線をある程度遮断し、見られずに見る、という立場に「ぼく」を置いてくれるでしょう。
 見られずに見る、そして書く。
 自動車に乗って報告書を書く『燃えつきた地図』の探偵は、『箱男』の箱男につながる存在だといえます(もっとも、自動車はそれ自体の特徴によって個体識別されてはしまうので、箱男の箱ほどの匿名性を持ちえないのですが)。

 『壁』第二部の「バベルの塔の狸」に、語り手が眼だけの存在になる、という展開があり、これがとても象徴的なのですが、安部公房にとって視覚とは、小説の記述を成り立たせるための決定的な条件でした。
 もし、見られずに見て、そのうえで語ったり書いたりすることのできる者が存在しうるとすれば、純粋な客観描写とでも呼ぶべきものが、そこに成立するかも知れません。
 「バベルの塔の狸」の「ぼく」や『燃えつきた地図』の探偵、そして箱男は、純粋な客観描写の仮説なのです。

 しかし、「バベルの塔の狸」でも『燃えつきた地図』でも『箱男』でも、見られずに見ようとする語り手たちの視線は、本人のエロティックな欲望によって汚染されています。
 安部の作品の中では、見ることは主観的なエロスの営みでもあるのです。
 ゆえに、純粋な語り手は存在しえず、客観描写は不可能である――このことはおそらく、安部にとって生涯のテーマのひとつでした。

 見るということに関していえば、写真、カメラ、レンズ、焦点、といったモチーフの系列が、『燃えつきた地図』には出てきます。
 「ぼく」の特技である「見たものの特徴を反射的にとらえ、その場で似顔絵にしてしまいこみ、必要に応じて取出し、すぐに復元する」能力が、まるでカメラの機能であること、また、失踪者である「彼」の数少ない手がかりである写真について、奇妙なほどに描写が少ないことと併せて、これらのモチーフから小説全体を読み解くのも面白いでしょう。

 他にも、『燃えつきた地図』には多彩なモチーフがちりばめられており、それぞれのモチーフと主題との結びつきの緊密さ、鮮やかさは驚異的です。
 モチーフの面での豊かさも、『燃えつきた地図』の魅力だと思います。
 自動車、写真、乗り入れ禁止の看板、ローラー・スケートの少年……。
 どこまでも分析してゆきたいという欲望が掻き立てられますが、それはまたいつか。
 みなさんも、ぜひやってみてください。

  ***

(追記)

ちなみに、本文に書いた僕の『燃えつきた地図』の文庫本は、こんな感じです。

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中身は……

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修士論文を書くとき、作品内の事件の日付(時間関係)を調べるために、本の厚みの部分(何て言うんですかね。背表紙の反対側だから、腹?)にも書き込みをしました。

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『他人の顔』や『密会』でも、日付でインデックスを作るのはやりましたね。
古本としての商品価値ゼロ……。

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