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zoom RSS 【読書メモ】安部公房「問題下降に依る肯定の批判」

<<   作成日時 : 2013/01/24 18:37   >>

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最初期の短編集『(霊媒の話より)題未定』が出版されたこともあり、安部公房を初期から読み直していこうと、全集の第1巻を出して来て、最初に収録されている「問題下降に依る肯定の批判」を読みました。

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これは1943年の2月、安部の在籍していた旧制成城高等学校の校友会誌に掲載されたもので、18歳の安部が執筆した哲学的エッセイです。
じつは読むのはこれで3回めなのですが、あまりに哲学的すぎて(笑)、何が書いてあるのかこれまでは分からなかったのです。
今回、やっと内容が分かりました(と思います)。
18歳の少年が書いた哲学的エッセイを、32歳にして必死に解読するというのは、ちょっと哀しかったですけど……。
以下、安部公房全集(新潮社)第1巻のページ数に対応して、内容をまとめます。

***

安部公房「問題下降に依る肯定の批判――是こそは大いなる蟻の巣を輝らす光である――」

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[11ページ]
■みんな軽々しく「反省」などという言葉を使うが、真の「反省」とはどのようなものか分かっていない。
真の「反省」とは、現在目の前に見えている問題が根本的な問題ではない(仮象である)ことを見抜き、より基底的な水準へと問いを深めてゆく、主体的な行為である。
そしてこの、問いを基底的な水準まで深める、という行為を「問題下降」と呼ぶ。

[12ページ]
■「問題下降」は無限後退ではない。
つまり、ある水準まで深められた問いに対して、揚げ足取りのように<より基底的な問い>を突きつけることができ、これが無限に繰り返される、というような構造を持たない。
▼「反省」が無限後退としてイメージされてしまうとき、それは次の(1)から(4)の道筋をたどるものとなるだろう。
(1)我々は、手近にある不確かなものを客観的基準だと勘違いして、誤った判断をしている。
(2)だから、より抽象化・客観化された基準を見つけ、正しい判断をせねばならない。
(3)しかし、新しい基準がまだ十分に抽象化・客観化されたものではなかったということが、そのうち露呈するかも知れない。
(4)基準の抽象化・客観化はいくらでも続けられうるので、真理の認識が可能だとはとても言えない……。
――このように、無限後退としての「反省」においては、より高次の客観性を求め続けることで、真理の認識が永遠に先延ばしにされてしまうのである。
▼だが、真の「反省」である「問題下降」は、客観性から真理へ、という道筋をとらない。
客観的基準を自分の外に求めることではなく、自分の「立場」を自覚することによって、「問題下降」は可能になるのだ(客観性から主観性への転回)。
自分の「立場」を認識した者は、客観的基準に依拠することなく、「判断」を下すことができる(その「判断」は「真理の認識」とはちょっと違う)。
■そして、高等学校という場所で生きる私(当時の安部)たちにとっていちばん重要なのが、この「立場」の認識(自覚)である。
高等学校とは、「思想の遊歩場」、つまり、人々が自由に考えを深め、物事を基底的な水準から思索することのできる場所であるべきだ。

[13ページ]
高等学校は、「思想の遊歩場」であるからには、現実社会からまったく隔絶したものであってはならず、しかし現実社会の中に固定的な形を持って存在しているものだと考えるべきでもなく、しかも、現実社会の圧力に煩わされずに様々なことを考えられる場所であらねばならない。
だからこそ、高等学校に通う学生は、真の「反省」と「問題下降」について理解するべきだ。
■そもそも人間は、「因襲」に囚われて同じところを這い回る「蟻」のような存在であり、現代の人間社会とは、「無限に循環して居る巨大な蟻の巣」のようなものである。
自分が「蟻」のような限定性の中で生きる存在にすぎない、ということを「自覚」せぬまま生きるのは、つらいことではなかろうか。
自由な思想のために必要な「自覚」は、真の「反省」と「問題下降」によって可能になる。

[14ページ]
■「問題下降」とは、まずは「一般には普遍妥当性を持った事実であると考えられて居るものに、何か根本的誤謬が在るのではないか」という疑いを持つことであり、そしてそのような「根底的要素の吟味」によって、「肯定」へと至ることである。
▼たとえば、私たちが「真理」だと思い込んでいるものは、ただの「趣味」にすぎないのではないか。
――こういった懐疑が、「問題下降」の第1段階の「根底的要素の吟味」に当たるだろう。

[15ページ]
▼「問題下降」の第2段階たる「肯定」は、正直なところ、たいへん困難なことだ。
人類史上、「肯定」を完遂できた思想家はなかなかいない。
いちばん頑張ったのがニーチェ(「やっと百歩進んだ」)であり、次はドストエフスキー(「幾度も立上ったが二三歩毎に息切れがした」)だろう。
しかし私たちは、たとえ小さな「肯定」でもよいから、最初の「肯定」へと踏み出すべきだ。
自分の自由な行動によって、主体的に「判断」し、「価値」を生み出してゆかねばならない。

***

こんな感じだろうと思います。
もっと短くまとめると、
――人間は、暗い巣(社会)の中を這い回る蟻のような存在であり、自分の存在の限定性を意識できていない。
まずは自分の立場を自覚し、これまで根底的だと思い込んでいた条件を吟味せよ(「問題下降」の第1段階)。
そのうえで、自己の外部に客観的な基準を仮構することなく、自由な行動と判断によって、新しい価値を主体的に創造せよ(「問題下降」の第2段階)。――
といったところでしょうか。

「問題下降」という概念は、カントの批判哲学から来たのかと思いきや、これを書いた時点では安部は『純粋理性批判』を読んでいないのですね。
「問題下降」の第1段階である懐疑は、ドストエフスキーの影響のようです。
また、「問題下降」の第2段階である「肯定」は、明らかにニーチェ。
というか、懐疑を通して肯定(価値の創造)へ、という流れ自体がニーチェですね。

安部は後年、作家として、三人称的原理(客観)と一人称的原理(主観)のせめぎあいを自ら体現した後、一人称の底無し沼にどっぷりはまり込んでゆくことになるわけですが、
「問題下降に依る肯定の批判」は、その行く末を暗示していますね。
ただ、この論文の時点で、無限後退を何とか回避しようという態度が見られ、そこが興味深いのではないでしょうか。
後年の安部の一人称問題は、無限後退にそっくりに見えつつも、無限後退への抵抗だったと思われますので。
主観/客観問題への認識は、まださすがに甘いですが、18歳でこんなものを書くとは、やはり恐ろしく頭のいい人だったんだなと思います。

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