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zoom RSS 【読書メモ】『皮膚感覚と人間のこころ』→「脳」/「眼」/「皮膚」の間の小説空間について

<<   作成日時 : 2013/04/28 14:51   >>

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 傳田光洋さんの『皮膚感覚と人間のこころ』(新潮選書、2013年)を、タイトルに惹かれて読みました。
 安部公房における身体論について考える参考とするためです。

 安部公房の『砂の女』には、「人間に、もしか魂があるとすれば、おそらく皮膚に宿っているにちがいない」という一節があり、また同小説のラストは、「魂」の宿っているはずの皮膚で水の冷たさを味わう、という場面になっています。
 「皮膚」に「魂」が宿っているとすると、『箱男』の重要なモチーフである「裸」も、「魂」へのダイレクトな通路だと考えることができます。

 『皮膚感覚と人間の心』には、案の定といいますか、安部公房への言及がありました。
 三島由紀夫やトーマス・マン、ヴァレリー(おそらく安部の皮膚論の元ネタ)も登場し、文系にとっても興味深い内容です。

 私たちはふつう、視覚は眼に、聴覚は耳に、嗅覚は鼻に、味覚は舌に、触覚は皮膚に対応させていますが、
 皮膚には、音を感じる力があるそうです。
 また、光を受け取ってそれを電気信号に変えることを視覚と呼ぶのであれば、皮膚はそれも行っています。
 とても辛い物が付着すると、皮膚は痛みを感じますし、
 もしかしたら、皮膚はあらゆる感覚を微弱ながら持っているのかも知れません。
 このことを知って、僕はけっこう興奮しました。
 ムリヤリすぎるかも知れませんが、ドゥルーズ&ガタリの次のような言葉を連想したからです。

見るための眼、呼吸するための肺、飲みこむための口、話すための舌、考えるための脳、肛門、喉頭、頭、足を、もはや耐えがたいものと感ずることは、なぜそんなに悲惨で危険なことなのか。なぜ、さか立ちで歩き、骨のくぼみで歌い、皮膚で見、腹で呼吸しないのか。[……]われわれはこう言おう。もっと遠くへ行こう。われわれはまだCsO[器官なき身体]を見つけていない。[……]きみ自身の器官なき身体を見つけたまえ。これを作り出すことを学びたまえ。 [『千のプラトー』宇野邦一ほか訳]


 つまり、皮膚こそが「器官なき身体」のモデルになりうるかも知れない、という思いつきですね。

 ところでもうひとつ、この本をきっかけに、少し考えがまとまってきたことがあります。

 僕は、安部公房の小説において、視覚が特権的な地位を持っている、と考えていました。
 小説を書く、ということは、視覚(見ること)とのアナロジーで捉えられていると。
 そして、どうもその視覚の特権化は、『壁』あたりで起こっているようです。
 つまり、『終りし道の標べに』真善美社版では、見ることが強烈に特権化されているわけではありませんが、『壁』では明らかに「眼」が特別なモチーフになっているのです。

 『終りし道の標べに』真善美社版から『壁』へのこの変化を、僕は、内面すなわち「脳」から「眼」へのシフトとして理解できるのではないかと思っています。
 『終りし道の標べに』真善美社版のような内面性は、小説を晦渋なものにしてしまうので、その内面性の限界を突破するために、「脳」とダイレクトにつながった感覚器官(外界との通路)である「眼」へと、小説の中心を遷都したのではないか、という仮説です。
 そして『壁』以降、少なくとも『箱男』まで、安部の小説のひとつの中心は「眼」になるのですが、
 しかしそこに、「皮膚」というもうひとつの中心が浮上してきます。

 「皮膚」が作中のモチーフとして登場するのは、かなり早い時期のことです。
 しかし、「皮膚」が長編小説の体制全体に関わるようになるのは、中期の『砂の女』以降ではないでしょうか。
 どういうことかというと――

 僕はいま、安部の小説を考えるうえで、

<事件の主人公> :いわゆる主人公。物語内容の水準の主体。
<事件をテキスト化する主体> :いわゆる書き手、語り手。物語行為の水準の主体。
<テキストを編集する主体> :物語を小説としてパッケージングする水準の主体。

という3種類のエージェントを考慮しなければならないと考えています。
 たとえば、『他人の顔』の<事件の主人公>は「ぼく」、<事件をテキスト化する主体>も「ぼく」、<テキストを編集する主体>は安部公房、となります。
 この3つのエージェントについては、別のところ(「もぐら通信」第8号に掲載していただく「『終りし道の標べに』真善美社版について」)に書きますので、ここでは詳しく述べませんが、
 『皮膚感覚と人間のこころ』を読んで、以下のような対応が考えられると思ったのです。

<事件の主人公> → 皮膚
<事件をテキスト化する主体> → 眼
<テキストを編集する主体> → 脳


 安部の小説は、この「脳」と「眼」と「皮膚」の間の空間に成立しているのではないでしょうか。
 また、「脳」と「眼」と「皮膚」の間の、どの位置に小説を成立させているのか、ということを考えると、安部の小説についてより多くのことが分かるのではないでしょうか。
 (「脳」と「眼」は近く、ダイレクトにつながっている。「皮膚」は「脳」から遠いように見える。しかし、「皮膚」は身体のあらゆるところにある……)

 『皮膚感覚と人間のこころ』から、多くの示唆をもらいましたので、今後に活かしてゆこうと思います。

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