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zoom RSS <本質性>の思想家、吉本隆明

<<   作成日時 : 2013/06/09 23:44   >>

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 ここ1年ほど、吉本隆明の著作を初期から順に読んでゆく、という読書会に参加させていただいているのですが、現在『言語にとって美とはなにか』(1961年〜1965年)まで読んできて、だんだんと吉本という思想家の像が見えてきたかな、という気がしています。
 そこで、いま考えている仮説を、ちょっとまとめてみます。

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 私は以前このブログで、吉本の『カール・マルクス』――その中の「マルクス紀行」(1964年)――に出てくる<現実性><本質性><幻想性>の三幅対をとりあげたうえで、これらが「日本のナショナリズム」(1964年)における大衆/知識人/支配層のナショナリズムに対応しているのではないかと述べました。→ こちら

<現実性>= マルクスの市民社会分析(経済学)に対応
<本質性>= マルクスの<自然>哲学に対応
<幻想性>= マルクスの宗教・法・政治国家の分析に対応


   ↓↓↓

<現実性> → 大衆
<本質性> → 知識人
<幻想性> → 支配層


 そして、この三幅対と、「想像力派の批判」(1960年)の言語論(→ こちら )を結びつけて、下のような対応関係を考えることができるのではないか、とも述べました。→ こちら

<現実性> → 感覚的なもの(感性)→ 大衆
<本質性> → 概念的なもの(悟性)→ 知識人
<幻想性> → 想像的なもの(構想力)→ 支配層


 ちなみに、この三幅対のトポロジーは、単に類推で繋げているだけなので、厳密に一致はしません。
 特に『カール・マルクス』での<本質性>の概念には、人間の対自然関係という含意もありますから、他の文脈へ持ち込むのはちょっと無理があります。

 しかし、無理を承知のうえで、吉本という思想家の像に少しでも迫るため、上の図式を敷衍して仮説を立てると、
 吉本隆明は、知識人の役割を<本質性>の探究・解明に置いた、という意味で、<本質性>の思想家である、といえるような気がします。
 そして<本質性>とは、<現実性><幻想性>との間で生きているという、すべての人間に共通する存在様式のことなのではないでしょうか。

 吉本隆明は、少なくとも初期は(『言語にとって美とはなにか』以降のことはまだ私には分からないので……)、前衛としての知識人が大衆を導く、という考え方に対する激烈な批判を、宿命的ともいえる特徴としています。
 思い切ってひどく単純化してしまうと、戦中の軍国主義的イデオロギーや、その鏡像のような教条的マルクス主義への憎悪から、吉本の根底には「人間はみんな同じものだ」という実感が形作られたようです。

現実のプロレタリアートはもちろんさまざまの夾雑物をもって生活している存在である。これを極端にしていえば、ある場面ではプロレタリアートであり、ある場面ではブルジョワジーであるといったことがおこりうる。 [「自立の思想的拠点」(1965年)]


マルクスの<自然>哲学の本質である<疎外>は、現実社会の経済的カテゴリーのなかに表象されてはいりこんでくるやいなや個別的な<階級>概念となってあらわれる。ここでは、資本家であるとともに労働者であったり、労働者であるとともに資本家であったりというような、個々の人間にまつわるあるがままの複雑な関係が存在している。 [「マルクス紀行」、下線引用者]


 あまり適切な箇所を引けたわけではないのですが、上の引用のように、ブルジョワジーとプロレタリアートとの判然とした(そのぶん単純な)隔絶を認められない、という姿勢は、吉本の著作に多く出てきます。
 大衆も知識人も支配層も、個々の人間としては<現実性><幻想性>の間で生きている、そしてそのことが人間の<本質>である、と吉本は考えているのです。
 ですから吉本は、前衛としての知識人が大衆を導く、という考え方を否定します。
 しかし、吉本自身は知識人です。
 したがって、前衛ではない知識人のあり方を生きねばならない。
 そこで吉本がこだわったのが、大衆と知識人と支配層に共通する――<現実性>から<幻想性>までを貫通する――<本質性>なのではないでしょうか。
 この場合の<本質性>とは、悟性によって解明されるべき類としての共通性、くらいの意味ですが、その<本質性>を解明するのが、知識人に固有の役割だというわけです。

わが国では、思想の尖端をゆく言葉は短命で移ろいやすい。それを補償するように、なかなか死滅しない土俗的な言葉が地中にひそんでいる。[……]わたしが課題としたい思想的な言葉は、この各時代の尖端と土俗とのあいだに張られる言語空間の構造を下降し、また上昇しうることにおかれている。 [「自立の思想的拠点」]


 『言語にとって美とはなにか』などで、吉本がくどいくらい「本質論」と言っていることの根底には、こういうことがあるのかな、と思いました。
 私は吉本論というものをあまり読んでいないので、吉本が<本質性>から論じられているのを見たことがないような気がしますが、よく使われる「大衆の思想家」というキャッチフレーズよりは、「<本質性>の思想家」といったほうが、しっくりくるのではないかと。

 私が中沢新一さんによる『カール・マルクス』(光文社文庫、2006年)解説に疑問を持ったのも、漠然とこのように感じていたからかも知れません。
 中沢さんは、<現実性><本質性><幻想性>を、ジャック・ラカンによる三界理論の象徴界/現実界/想像界へと読み替え、「ボロメオの環」のトポロジーで解釈されています。

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 しかし、本当は<現実性>/<本質性>/<幻想性>は、串団子みたいなものなのではないでしょうか。
 こんなふうに……。↓↓↓

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