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zoom RSS 『共同幻想論』「祭儀論」(1)<逆立>と<生誕>

<<   作成日時 : 2013/12/31 18:25   >>

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吉本隆明『共同幻想論』「祭儀論」(1)<逆立>と<生誕>

初出:
「文芸」1967年4月
初刊:
『共同幻想論』河出書房新社、1968年
テキスト:
『改訂新版 共同幻想論』角川ソフィア文庫、1982年

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■■原理的に、個体の≪1≫自己幻想は、その個体の属する社会の≪n≫共同幻想にたいして<逆立>する〔136〕

※ <逆立>とは、「接しながらも逆方向の志向性を持ち、矛盾している」というほどの意味。

■なぜか――<逆立>の原質である<生誕>〔137-138〕

@ 心的にみられた[=幻想性の領域における]<生誕>というのは、≪n≫共同幻想から<此岸>へ投げ出される[=分化し、疎外される]かたちで個体の≪1≫自己幻想が生まれる、という意味を持つ。
そして≪1≫自己幻想の分化[=疎外]は、その最初の時点においては、自己の意志にかかわりなく始まるものである。[※@ 共同幻想からの疎外]
  ↓
A よって<生誕>は、ある程度の時期までは、<生誕>した当の個体によって自覚されずに進む過程である。
当の個体に自覚のない期間は、その個体は生理的にも[=現実性の領域においても]心的にも[=幻想性の領域においても]親からの扶養を必要とする。[※A 対幻想の中での成長]
  ↓
B 人間の≪1≫自己幻想は、徐々に周囲の≪n≫共同幻想をはねのけながら、当の個体に固有のあり方を形成し、自覚的なものとなる。[※B 共同幻想からの自立]

したがって、いったん形成されたあかつきには、≪1≫自己幻想はたんに≪n≫共同幻想からの疎外[※@]を意味するだけでなく、≪n≫共同幻想と<逆立>[※B]するほかはない。

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■この<逆立>は、あからさまな対立というかたち以外にも、さまざまな仮象(みかけのかたち)を取る〔136〕

≪1≫自己幻想≪n≫共同幻想の<同調>……<逆立>の極端な仮象のひとつ

【前提】
・ある個体の<生誕>に直接[現実性の領域で]かかわっているのは、その個体の父と母であり、その個体の≪1≫自己幻想は、(社会の≪n≫共同幻想から間接的な影響を受けながらも、)父と母の≪2≫対幻想の共同性(つまり家族)の中で形成されてゆく。[Aの段階]
・また、当の個体の≪1≫自己幻想があるからこそ、その個体は≪n≫共同幻想を認識することができる。
――以上2点より、ある個体にとって、≪n≫共同幻想が一次的なものであり、≪2≫対幻想≪1≫自己幻想は二次的なものだ、とはいえないはずである。

【<同調>という仮象】
しかし、極限のかたちでの恒常民と、極限のかたちでの世襲君主とが構成している共同体を想定すれば、
その共同体に属するある個体が、
≪n≫共同幻想はじぶんの≪1≫自己幻想にさきだっており、じぶんの≪1≫自己幻想≪n≫共同幻想から直接うみだされたものだ」
と信じることが可能になる。
そのとき、個体の≪1≫自己幻想は、みずからを社会の≪n≫共同幻想に<同調>するものとして感じることになる。

――つまり、「極限のかたちでの恒常民と極限のかたちでの世襲君主」が構成している共同体という、現実にはなかなかありえないような想定においては、個体は共同体のあり方を、先験的なもの(=所与のもの、当然のもの)として受け入れている。
人間の≪1≫自己幻想は、原理的には≪n≫共同幻想と<逆立>するはずだが、その<逆立>の様子が最もみえづらいような極端なケース(仮象)が、以上の<同調>である。

そしてこのような<同調>がある場合、民俗的な幻想行為[=心のはたらきにかかわる行為]である祭儀と、支配者の権力にかかわる祭儀とが、重ね合わせられることになる。

※ この<同調>は、「禁制論」でみた<黙契>(<正常>な個体が共同体のタブーを内面化している状態)に近いものであり、
西欧的な<禁制>(個体の自己幻想が共同幻想とわかりやすく<逆立>している状態)と対照的な、日本の常民の特異性を指し示していると思われます。
したがって、日本における≪1≫自己幻想≪n≫共同幻想とのあいだの<黙契>、ひいては<禁制>と<黙契>との「混融」のあり方を解明しようという『共同幻想論』のモチーフA(「全著作集のための序」〔11〕)からすると、このような<同調>、および民俗的祭儀と支配者の祭儀との重なりこそが、重要な論点になるだろうとわかります。

▼<欠如>や<虚偽>といった関係――<逆立>の仮象

現実には、人間が≪1≫自己幻想≪n≫共同幻想との完全な<同調>を感じることはなかなかできない。
現実に生活している個人は、大なり小なり≪1≫自己幻想≪n≫共同幻想の矛盾として存在している。

・ある個体の≪1≫自己幻想は、≪n≫共同幻想を<欠如>として了解する。[つまり、共同幻想に完全に<同調>できず、何かが欠けているという違和感をおぼえる]
・ある個体の≪1≫自己幻想は、≪n≫共同幻想を<虚偽>として感じる。[つまり、共同幻想に完全に<同調>できず、嘘があり騙されていると感じる]

――これらは、違和感ほぼ0%の<同調>と、違和感100%の<逆立>との間に位置している。
そして<逆立>こそが≪1≫自己幻想≪n≫共同幻想との関係の本質なので、<欠如>も<虚偽>も、<逆立>の仮象である。

このことを、冒頭でみた「共同幻想からの@疎外→B<逆立>」というメカニズムと照らしあわせてみると、以下のようになる。

@ 個体の<生誕>=共同幻想からの疎外
   ↓
 自己幻想は共同幻想を<欠如>や<虚偽>として感じる
   ↓
B 自覚的な<逆立>にたどりつく

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※ 『共同幻想論』の大きな主題のひとつは、≪1≫自己幻想≪n≫共同幻想にたいしていだく関係意識、つまり≪1≫自己幻想≪n≫共同幻想との関係という点にあるわけですが、
これについて考察するためには、<生誕>が幻想性の領域においてもつ意味を明らかにする必要がありそうだ、
という流れで以下、吉本は論を進めます。

■■幻想性の領域における<生誕>の意味〔139-140〕

<生誕>の時期における≪1≫自己幻想共同幻想にたいする関係の原質は、胎生時の<母>と<子>の関係に還元される。
  ↓
すくなくとの<生誕>の瞬間においては、
生まれた<子>の≪1≫自己幻想にとっての共同幻想は、<母>という存在に象徴される。

人間の<生誕>にかかわる共同幻想は、村落の≪n≫共同幻想と、<家>での男女のあいだの<性>を基盤にした≪2≫対幻想の共同性との、両極のあいだを移行する。

※ つまり、人間の<生誕>が幻想性の領域においてもつ意味とは:
共同体の≪n≫共同幻想から分化し疎外された個体としての子どもが、<家>における<母>との関係という≪2≫対幻想の中へ入ってゆく、ということ。

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そして、≪n≫と≪2≫のあいだを移行するこの構造だけが、人間の<生誕>と<死>を(幻想性の領域において)区別している本質的な差異である。
・<生誕>……≪n≫から≪2≫への移行構造をもつ。
・<死>………≪n≫から≪2≫への移行構造をもたない。

これ以外のちがいは相対的なものにすぎない。

※ これはどういうことなのか、<死>について論じた「他界論」を参照しつつ推量してみると――
・生きている個体は、じぶんの<生誕>そのものを心的に経験することができず、<生誕>を心的に作為[=操作、変形]するしかない。
・人間は他人の<誕生>を、じぶんのこととして心的に構成することも不可能である。
・よって人間は、≪1≫自己幻想≪2≫対幻想ではとらえられない<生誕>のための空白を、≪n≫共同幻想によって埋めるしかない。
ここまでは、<死>と<生誕>との共通性である。しかし、
・<死>においては、≪1≫自己幻想≪2≫対幻想は、≪n≫共同幻想に全面的に<侵蝕>される。……≪n≫から≪2≫への移行構造をもたない。
・<生誕>においては、≪n≫共同幻想から疎外された個体は≪2≫対幻想の関係の中に入る。……≪n≫から≪2≫への移行構造をもつ。
  ↓ 以上のことをまとめる
<誕生>の前と<死>の後は、ともに≪1≫自己幻想≪2≫対幻想ではとらえられず、≪n≫共同幻想の仮構したフィクションに従って想像するしかないものなので、
<生誕>と<死>は、幻想性の領域においては似ている。
両者を本質的に分けるのは、≪n≫から≪2≫への移行構造があるかないかというだけのことである。


■■未開人にとっての<死>と<生誕>〔141〕

理論的には、
<生誕>と<死>とのあいだには、≪n≫共同幻想から≪2≫対幻想への移行構造の有無という、明確な差異がある。

  ↓ しかし
未開人は、この微妙な差異を十分に認識できなかったため、
<死>と<復活>の概念を、ほとんど等質に見做していた。


未開人は<受胎>、<生誕>、<成年>、<婚姻>、<死>といった人生の過程を、繰返される<死>と<復活>の交替としてとらえられていた。
したがって、未開人にとって、<生誕>と<死>によって限られる生の世界と、<生誕>以前の世界および<死>以後の世界とは、はっきりした境界がなかった。
  ↓
未開の段階にある人間が、このように<死>と<生誕>とを類似したものとしてとらえていたことを、『古事記』に収められた挿話から読み取ることができる。





*** 2014.01.12.追記 ***



ここまでの要点をまとめます。

1.<同調>の共同体における祭儀

≪1≫自己幻想を、人間の個体としての心のはたらきとし、
≪n≫共同幻想を、人間の集団(として)の心のはたらきとする。
さらに、≪n≫共同幻想のなかには、以下の2つがある。
n>2のとき……≪n≫共同幻想:ひとつの共同体における集団の心のはたらき
n=2のとき……≪2≫対幻想:<性>をはじめとする一対一関係における心のはたらき

・基本的に、≪1≫自己幻想は、≪n≫共同幻想と<逆立>する。
・≪1≫と≪n≫との<逆立>は、明確に自覚される<逆立>以外にも、さまざまな形態をとる。
・<逆立>がどのような形態をとるかは、個体が共同体への違和感を、どの程度自覚しているかによる。

ここで吉本は、極限のかたちでの恒常民と、極限のかたちでの世襲君主から構成されている共同体を想定します。
この想定はおそらく、日本における常民と天皇制との関係について考察するためのものです。
そのような共同体がもしあるとすれば、そこでは、個体が共同体に対する違和感をほとんど自覚できず、<逆立>が明瞭な形をとらない、とかんがえられます。

・極限のかたちでの恒常民と、極限のかたちでの世襲君主から構成されている共同体においては、≪1≫は≪n≫に<同調>しているような仮象をもてるはずである。
・≪1≫と≪n≫とのあいだに<同調>の仮象があるとき、民俗的なものであるはずの祭儀は、支配者のためのものにもなってしまう。

2.<生誕>と<死>

「他界論」における<死>の定義を参照すると、
「<死>とは、人間の自己幻想または対幻想が、極限のかたちで共同幻想から<侵蝕>された状態である」
ということでした。
このことの意味がいまだによくわからないのですが、推測してみると――

i) 人間の≪1≫自己幻想が極限のかたちで≪n≫共同幻想から<侵蝕>される<死>:
ある個体の、じぶん自身に対してもつ心のはたらきが、共同幻想に完全にのみこまれてしまい、自己幻想が共同幻想の中に解消してしまう、というかたちでイメージされる<死>です。
ii)  人間の≪2≫対幻想が極限のかたちで≪n≫共同幻想から<侵蝕>される<死>:
一対一関係(おもに<家>)の共同性の中で心的にとらえられた個人が、共同幻想の中にのみこまれてしまう、というかたちでイメージされる<死>です。

――どちらの場合においても、個体が共同幻想の中にのみこまれ、個体としてのまとまりを解消してしまうような出来事として、<死>がイメージされます。
(このあたり、「幻想」という語のもつベクトルの始点と終点がわからない、といういつもの疑問に悩まされるのですが)

さて、「祭儀論」の主題のひとつは、<死>と対照的な<生誕>です。

・幻想性の領域において<生誕>の意味とは、
@ 共同体の≪n≫共同幻想から分化し疎外された個体が、
A <家>という≪2≫対幻想の共同性(<家>における<母>との関係)の中に入ってゆくこと。

<生誕>の@の段階だけを見ると、<死>の過程をまったく逆にたどるだけだ、ということがわかります。
<生誕>において共同体から疎外された個体は、<死>においてまた共同体の中へと戻ってゆくわけです。
したがって、もし<生誕>が@の過程しかもたないのであれば、<生誕>と<死>は、単に互いに逆であるだけのもの――袋から取り出した球をまた袋に戻すようなもの――だということになります。

しかし、<生誕>にはAの過程があり、この≪n≫から≪2≫への移行過程は、<死>にはみられないものだと吉本は述べます。
確かに、もし<死>に同じような移行過程があったとしたら、それは≪1≫から≪2≫への移行過程――つまり個体が対幻想の共同性の中に入ること――だということになるでしょうが、それは<死>にとって不可欠な要素ではありません。

・<生誕>と<死>は、幻想性の領域においては似ており、両者を本質的に分けるのは、≪n≫から≪2≫への移行構造の有無のみである。
・未開人は、≪n≫から≪2≫への移行構造の有無という差異を十分に認識できなかったため、<死>と<生誕>の概念を、ほとんど等質に見做していた。


▼▼▼▼
「祭儀論」全体のまとめは
http://42286268.at.webry.info/201402/article_1.html

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