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zoom RSS 【まとめ】安部公房ワークショップ(演劇) 清末プログラム(1/23-24)報告

<<   作成日時 : 2015/01/28 01:33   >>

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2015年の1月に、板橋の小劇場サブテレニアンさんの主催で行われた、安部公房の演劇に関するワークショップにて、私(清末浩平)が単独で担当させていただいたプログラムについての報告です。

-- 事前告知

(1) オリエンテーション

(2) 「ニュートラル」を作る

(3) 「ゴム人間のゲーム」

(4) 「写真のぞき」

(5) 「ガイドブック」


【追記】ワークショップ全体を振り返っての感想

今回のワークショップで実際に試してみるまでは、私は、安部公房の「安部システム」の俳優訓練法をかなり奇抜なもののように思い、ワークショップは実験的なものになるだろうと予想していました。
しかし、いざ現場で俳優のみなさんに取り組んでもらってみると、それぞれのメニューが理にかなっており、他の演技術や演技論との興味深い共通点も多く見いだせることが分かりました。
そして、取り組んでくださった俳優のみなさんは、おおむね楽しんでくださって、やりがいも感じてくださったように思います。
もし今後、私が同じようなワークショップを担当する機会があるならば、そのときはそれぞれのメニューにもっと時間を使い、掘り下げるような形でやると、さらなるポジティブな発見があるだろうと感じられます。

今回の私の収穫として、とりあえず安部の演技論の根幹をまとめるとすれば、以下のようになります。――
うまいとされる俳優の演技のパターンをまねるだけの「型芝居」になってはならない。
戯曲を文学的に解釈することであらかじめ心理や感情を決めつけ、その心理や感情だけで演技を染めあげて、舞台上に実際に生起している時間と空間のあり方を無視するような「気持芝居」になってはならない。
舞台上の状況(実際の時間と空間のあり方)の中でリアルに生きる演技をしなければ、観ていて面白くない。
リアルな演技を成り立たせるためには、あらかじめ準備され持ち込まれるような「型」や「気持」ではなく、ひとりの人間(一個の有機体)としての「生理」によって、舞台上の状況と向き合わなければならない。
「生理」によって状況と向かい合うというのはどういうことかというと、その状況において必要のない緊張を外から持ち込まず、かつ、その状況の中のあらゆることに対して集中することである。
このようなリラックスと集中の共存状態を、「ニュートラル」と呼ぶ。
「ニュートラル」な状態にある俳優の演技は、「生理」的な波動を観客に送り、観客の「生理」と直接的にコミュニケーションを取ることができるので、リアルだし見飽きない。


上記のような演技論は、俳優をやっている方には納得のいくものであり、そのためのメニューも有意義なものだと思っていただけたようです。

そのうえで、現時点における私個人の疑問を述べておきます。
私にとって、まだ「安部システム」の有効性が明らかになっていない部分(今後見きわめる必要のある部分)、それは「テキストを上演する」という局面です。

安部公房は安部公房スタジオの活動において、俳優のアドリブを収拾してそれを膨らませる、という厖大な作業を行って、稽古とほぼ同時進行で上演テキストを作りました。
そのやり方ができるならば、テキストの解釈という問題は生じないか、もしくは最小の範囲で収まります。
しかし、既成の戯曲を「安部システム」によって上演しようとする場合はどうでしょうか。
戯曲を前もって解釈すると「気持芝居」になってしまう、だから解釈せずにただ「生理」だけで演技を作ろう、などとは言っていられないはずです。
どんなに何気ない台詞であっても、「明らかに間違った解釈」というものはあります。(それは子どもにも見抜かれてしまいます)
「間違った解釈でもかまわない、生理的でありさえすれば」というふうに考えるのはあまりにも楽天的すぎますし、安部もそのようには考えなかったはずです。
(もし何でもアリと考えていたなら、たとえば安部は『ハムレット』とかをダダ的に上演したりしたかも知れませんが、そうなってくるともう生理とか舞台上の状況とかいうことも無意味になってきます)
およそどんなテキストでも、最低限守らなければならない解釈の幅というのはあります。
そして、演出家が解釈を押しつけるのでないかぎり、やはり俳優自身がテキストを妥当に解釈しなければなりません。
「生理」による演技とは思考から自由になることであり、考えないことであり、身体に正直になることである、というだけでは、既成のテキストの上演には明らかに足りないのです。
否応なく権威のくっついてくる『ハムレット』などでなくても、安部の遺したテキストであっても、「生理」だけでは上演できません。
そもそもテキストの上演において、解釈なしには「生理」など生じようもないのです。
読み取ること、考えること、解釈すること、それを表現すること――そういった領域を、「安部システム」はカバーしていたのでしょうか。
もしかしたら、そういう領域は、個々の俳優の教養やスタニスラフスキー・システムに、暗黙のうちに丸投げしていたのではないでしょうか。

以上のように思われるため、現在の私は、「安部システム」の有効性や面白さを基本的に高く評価しつつも(エラソーですみません)、「安部システム」が万能だとは考えません。
そして、安部公房スタジオの後期に安部が作った演劇が非常に実験的な作品であったことは、この「安部システム」の(欠陥とまではいわなくても)偏りによって規定されていたのではないか、というふうに推測しています。
今後、このあたりのことを確かめていきたいと思います。

最後に、誤解のないようにいっておきますと、
私は、芸術家というものはそれぞれ独特の偏り方をするものだと思っています。
ですから、安部の演技論が偏ったものであったとしても、そのことで咎めようなどとは思いません。
その偏りこそが、鑑賞する側にとって面白いところなのですから。
そして、安部はおそらく、その偏りをよく理解したうえで、活用すらしていたのですから。(それは安部にしかできないことでした)
私はただ、そういう偏りを見きわめたいだけです。
そしてもちろん、そういう偏りがあったのではないかというのは現時点での私の仮説にすぎませんので、これから調べていくなかで、この仮説を修正したり取り消したりすることは十分にありえます。
そういうことをはっきりさせるために、研究というものはあるのだと、私は思っています。

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