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zoom RSS 『砂の女』と小説の地平 (三) 『砂の女』の叙述 ―― 「デンドロカカリヤ」との比較

<<   作成日時 : 2015/02/12 17:03   >>

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『砂の女』と小説の地平 ―― 安部公房の小説について ――

はじめに
一 『砂の女』の内容
二 『砂の女』の意義 ―― 「デンドロカカリヤ」との比較
三 『砂の女』の叙述 ―― 「デンドロカカリヤ」との比較
四 『砂の女』の小説体制 ―― 中期の長編小説の地平


三 『砂の女』の叙述 ―― 「デンドロカカリヤ」との比較


 前節に引き続き、「デンドロカカリヤ」と『砂の女』との比較を、今度は叙述の形態の面から行おう。

 「デンドロカカリヤ」初出版のテキストは、語り手の「ぼく」が聞き手の「君」に語りかける話し言葉という体裁を持っている。「ぼく」は「植物病」という病気の蔓延を、話し合いと協力によって食い止めようとしている。「植物病」であることを隠そうとしている「君」を説得し、「君」との連帯を成立させることこそが、「ぼく」の語りの目的なのである。そして、「ぼく」が「君」を説得するための材料として、「植物病」であることを誰にも明かさなかったがゆえに植物に変形してしまったコモン君の事件が語られる。

 語り手の「ぼく」は、「君」という具体的な人物との現在の対面関係において、「君」の表情や態度に影響を受けながら、過去に起こったコモン君の事件を語る。その過去の事件の中では、過去の「ぼく」自身が登場してコモン君と関係を持ち、事のなりゆきに関与している。

 以上のことから「デンドロカカリヤ」初出版は、「ぼく」が語る一人称の現在の基盤の上に、コモン君の語られる三人称の過去が付加された小説であるといえる。また、「ぼく」は語る現在においても語られる過去においても、具体的な人物と影響を与えあっている。

 だが「デンドロカカリヤ」の初刊単行本版では、語り手は過去のコモン君の事件に登場しない。また、一人の聞き手との現在時の対面関係も、テキストの表面には現れない。「ぼく」と「君」の具体性はテキストから排除され【注1】、「ぼく」とコモン君との関係も抹消されている。「デンドロカカリヤ」初刊単行本版における事件のテキスト化の形態は、安定した超越的視座に身を置く語り手が、内在的位置へと降りてくることなく、過去の事件を意味の中に「定着」させてゆく、安定した三人称過去形なのである。

 このテキスト化の形態における語り手の姿勢は、『砂の女』の主人公の初期状態と同じものだといえよう。『砂の女』の男は、自ら仮構した超越論的視座に立ち、採集した昆虫を「ピンでとめ」て「定着」させる人間だった(第4節)。男は夢想の中で、新種の昆虫に「長いラテン語の学名」をつけて図鑑に載せる(第2節)。これは「デンドロカカリヤ」の結末で植物化したコモン君の幹に「Dendrocacalia crepidifolia」と書いたカードを「大きな鋲でしっかりとめ」た植物園長の行為(安部公房全集第3巻365ページ)と酷似しているばかりでなく、初刊単行本版の語り手の語る行為と同じ意味を持っているのだ。

 鳥羽耕史は「デンドロカカリヤ」の叙述について、「寓話によって、読者にある教訓や価値観を諷喩的に伝えるためには、それを語る視点は安定しなければならない。初出版のように、様々に揺れ動く現実認識の葛藤のさなかに読者を迷いこませては、寓話は成立しないのである」と述べている【注2】。実際、語り手の具体性や内在性を消去し、視点を超越的なものとして安定させた初刊単行本版においては、なぜコモン君の身に起こったことやコモン君の心情を現在時の語り手がすべて知っているのかという初出版の最大の疑問点は、もはや問題にはならない。だがまさにこの改変のせいで、すべてを見通して過去形に「定着」させる「デンドロカカリヤ」初刊単行本版の語りは、すべてを必然性として仕組んでコモン君をデンドロカカリヤという名の植物へと「定着」させた植物園長の身振りに、近接してしまっているのではなかろうか。

 初出版の語り手「ぼく」は事あるごとに、過去の事件の中でコモン君を救えなかったことへの後悔を口にする。その慨嘆の言葉は、「ぼく」の存在の具体性と内在性ゆえに、深い哀感を湛えている。また「ぼく」の語りは、「君」を説得せねばならないという差し迫った目的のもとにあるため、不安定ではありながらも切実さを滲ませているように感じられる。一方、初刊単行本版の語り手は、そもそもコモン君と具体的な関係を持たなかったので、コモン君を救えなかったことを後悔する必要などない。安定した超越的な場所にいる語り手が、「ああ、コモン君、君が間違っていたんだよ」と述べるとき(安部公房全集第3巻364ページ)、その文言はほとんど初出版と同じものであるにもかかわらず、初出版にあった哀切さは感じられない。語り手がコモン君の受難を過去の一例として割り切り、見捨てているようにすら読めてしまう。

 そして結末で、植物化したコモン君に学名のカードを貼りつける植物園長の一種の名づけと、コモン君の事件を三人称で過去形に「定着」させる語り手の語りは、期せずして同質化する。さらにいえば、そのようにして完成したテキストの束をまとめ、「デンドロカカリヤ」という題名をつけて発表する作者の行為さえも、植物園長や超越的な語り手の身振りと、いくぶんか似たものに思えはしまいか。

 「デンドロカカリヤ」の語り手の性質が改稿によって再設定されたために浮上したこのような問題は、特に初刊単行本版のテキストのみを論じるにあたっては、必ずしも生産的な議論につながるものではなかろう。本稿にとって重要なのは、『砂の女』という小説が、まさにこのような問題を揚棄していることである。

 『砂の女』の主人公は、砂の穴からの脱出を図る内在的な試行錯誤の中、超越的で安定した「観察者」の視点を求める(第16節)。その視点は、すべてが終わった後で事件を過去形に「定着」させる、「作者」の立場でもある。男は「作者になりたいっていうのは、要するに、人形使いになって、自分を人形どもから区別したいという、エゴイズムにすぎない」と考えながら、「だからこそ、ぼくは、作者になってみたかった」と本音を覗かせるのだが、しかし、「人形使いになって、自分を人形どもから区別」するような仮構の超越的視座が、この小説の弁証法の中で否定されることは、本稿ですでに何度も確認されている。『砂の女』という小説はその内容において、「デンドロカカリヤ」初刊単行本版の語り手のあり方を否定し、また、同作の時点の安部公房の、作家としてのあり方をも批評しているといえるだろう。

 では、『砂の女』という小説の叙述の形態は、いったいどのようなものになっているのだろうか。そして『砂の女』という小説において、作者の安部公房のあり方はいかなるものになっているのだろうか。

 『砂の女』でテキスト化されるべき事件は、主人公の行動と認識の、先の見えない試行錯誤である。それを叙述しようとするとき、「デンドロカカリヤ」初刊単行本版のような、安定的な距離を取ってすべてを見通し意味づける超越的視点はふさわしくない。その不相応を極端な形で実演してみせているのが、プロローグめいた第1節である。

 事件をテキスト化する主体は第1節において、主人公のいなくなった空白の場所に視線を注いでいる。第1節の視点は、男が行方不明になった日から、死亡の認定を受けた七年後までを見渡すことのできる、超越的で安定した位置にある。さらに、統計や証言といったあらゆる情報を、事件をテキスト化する主体は参照することができる。離れた位置から情報を集めて積み重ねる第1節の叙述は、いわば事件の積分的なテキスト化であり、安定的な三人称をとる。しかし、離れた視点を取って外側から主人公のことを叙述し始めても、主人公の身に実際に起こったことは、結局何ひとつ分からない。主人公の経験した事件をテキスト化するためには、視点は空間的にも時間的にも、主人公に近づかねばならないのである。

 そこで事件をテキスト化する主体は、早々に視点を設定し直す。「ある八月の午後」から始まる第2節の最初の文章は、「八月のある日」から始まる第1節の冒頭を、男に寄り添う視点によってもう一度やり直しているのである。叙述は第2節から第6節(第一章前半)で、事件の微分的なテキスト化へと移行してゆく。『砂の女』における事件の微分的なテキスト化とは、主人公のごく近くに視点を置き、主人公の心中の声までも聴き取って自由間接話法で実況中継するような叙述である【注3】。この叙述は三人称を基盤にしているが、主人公の心内語の中継は、自由間接話法で行われるので一人称になる。

 第一章前半においては、主人公は自分が超越的視座に身を置いていると思い込んでいた。その間、事件をテキスト化する主体は、視点を主人公の近くに設定しながらも、後に起こるはずの事態をすでに知っていることを、ときおり仄めかす(「危険を予知させるものなど、まだ何もなかった」第2節、「間もなく、水あびなどがなんの役にも立たないことを、いやというほど思い知らされることになったのだ」第4節)。またこの段階では、主人公の心内語を一人称でテキスト化する自由間接話法は、三人称をとる叙述の基盤に対して、いちおう従属するような比率の範囲内に収まっている。

 第一章後半以降、叙述の視点が寄り添うべき主人公は、自らの近視性と内在性を露呈し、先の見えない試行錯誤を繰り広げる。そうなると事件を微分的にテキスト化する主体も、先を見通すことをやめる。主人公の内面は惜しみなくテキスト化されてゆくが、その一人称の部分の分量は自由間接話法の一般的な比率を超過してしまっており、時としてテキストの表面に現れる「男」や「彼」といった三人称の指標が、読者に違和感を与えるほどである。否定を否定しようとする先の見えない試行錯誤が、主人公の心内に激しい運動を生み、主人公に密着した視点が随時その心の動きを拾ってテキスト化する。このようにして、主人公の近視的な試行錯誤を、事件をテキスト化する視点がともに経験するからこそ、本稿が前節の後半で論じた主人公の視野の広がりを、『砂の女』の叙述は小説の終わりで演出することができるのである(第31節)【注4】。

 『砂の女』という小説における事件のテキスト化は、主人公に寄り添い、主人公の行動と認識を微分的に中継し、主人公の視野の広さの変化すら模倣する。またそのテキスト化の形態は、三人称の基盤の上に付加された一人称が、しばしば従属的な比率を大幅に超過して膨れあがり、テキストの表面を支配するようなものでもある。『砂の女』の叙述は三人称と一人称との間にあり、三人称に根を持ちながら一人称へと傾斜しているのだ【注5】。

 本稿は第一節で『砂の女』の内容を、いくつかの主題との関連において、一種の弁証法として確認した。次に第二節で、その内容の持つ意義を「デンドロカカリヤ」と比較しつつ把握した。そして本節で検討したのは、『砂の女』の叙述の面である。内容と叙述についてともかく論じ終えたいま、本稿は『砂の女』という小説のすべてを検討したといえるだろうか。

 そうではない。小説の内容とは、主人公が事件を経験する水準である。小説の叙述とは、事件がテキスト化される水準である。本稿はまだ、産出されたテキストの束がある秩序のもとにまとめられ、一編の小説となる水準を検討していない。それは『砂の女』でいえば、本編のテキストがエピグラフと二つの枠付き文書によって挟まれ、まさにいまある形の小説として読者へと供給される、テキストの編集の水準である。そしてこの水準を考察しなければ、『砂の女』において作者の安部公房のあり方はいかなるものになっているのかという、本節の中ほどで浮上した問いに答えることはできない。


【注】

1 「ぼくら」という複数の一人称は見られ、話し言葉を擬した文体からは語り手の何らかの人格も想像されるが、そこに具体性はない。改稿による叙述の形態の変化についても、拙稿「安部公房「デンドロカカリヤ」の改稿について」(2015年)http://42286268.at.webry.info/201502/article_10.html で詳しく検討してあるので、参照されたい。

2 鳥羽耕史『運動体・安部公房』一葉社、2007年。

3 本稿が事件の微分的なテキスト化と呼ぶこの叙述は、ミコワイ・メラノヴィッチには「活動中の言葉」といわれる(「「砂の女」を再読して」、「すばる」1993年6月)。また谷川渥は、この叙述のありようを正確に論じている(「安部公房『砂の女』」、「海燕」1996年10月)。

4 さらにいえば、第31節で主人公の視野が広がったとき、事件をテキスト化する主体は女の内面までも見通せてしまっている。また、第31節後半では、主人公の行動において手段が目的化し、否定を否定しようとする激しい心の動きがおさまるため、叙述は極端に簡潔なものになる。

5 渡辺広士は『砂の女』の叙述について、「〈男〉の三人称=一人称とでも言うべき新しい人称の視点」と述べている(『安部公房』審美社、1976年)。


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