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zoom RSS 唐十郎論――肉体の設定(1)

<<   作成日時 : 2015/11/07 19:31   >>

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唐十郎論――肉体の設定

・1 問題設定
2 「いま劇的とはなにか」を読む
3 唐十郎の演劇の体制
4 フィクションの政治性
5 現代演劇の政治と美学

    1  問題設定

 ◆ 唐十郎を甦らせる

 劇作家であり演出家であり俳優であり興行師でもある唐十郎という演劇人について論じ始めるにあたり、何よりもまず私の目的をさらけ出しておかねばなるまいと思う。私は唐十郎を甦らせたい。しかし、死んでもいないものを甦らせることなどできるのか。これまで何度も唐の〈復活〉をうたう試みは為されてきたが、書籍の出版や演劇祭といったそれらの企画は、唐の何に死を宣告し、何を甦らせたというのだろう。

 唐十郎に関していま私たちが死を確認できるもの、それゆえ甦らせることができるものは、唐のテキストのみである。唐が書き捨てた瞬間、完成したテキストは死んでしまう。そして誰かに読まれるとき、「現在形」として甦るかも知れない。それは〈復活〉ではなく、新しい〈誕生〉である。
 そのような形で唐のテキストを甦らせるためには、唐という人物に関する先入観を排し、テキストを生まれたままの姿で迎える必要がある。それは先延ばしにはできない。理由は述べたくないが、いまやらねばならないことだと私は思っている。

 このような目的のために唐十郎のテキストを論じる本稿は、演劇評論にはならないし文芸評論とも呼べないだろう。それでも本稿が書かれ読まれるとき、これまで半世紀にわたって唐にかけられていた限定が解除されるはずだと私は思う。ひいては、唐を起源とする日本の現代演劇が、もう一度新しく生まれ直すことにつながらねばならない。

 ◆ 現代演劇の土壌と象徴的なテキスト

 私たちがいま観ることのできる日本の現代演劇は、おおむね以下の三種類に分けられる。観る価値のないものと、観ても何にもならないものと、演劇ではないもの。
 観る価値のないものについて説明は不要だが、どれほど「考えさせられる」主題を扱おうと、その手つきが凡庸であっては意味がない。
 観ても何にもならないものとは、「考えるな、感じろ」という無言の命令とともに、私たちの身の丈に合った快楽を与えてくれる劇である。私は笑い、興奮し、満ち足りて劇場を後にしつつも、〈これだけでよいのか〉と思う。
 そういった劇に対する反措定として、観客に満足を与える回路を作り変えることを目指す試みが、「ポストドラマ演劇」などと呼ばれるものと一部重なりながら、比較的新しく現れてきた。演劇が本質的に抱える難問を、〈形式の面で一挙に〉解決しようという発想は、たとえ冒険的なもののように見えても実際は安易であるし、演劇への問いの最も根本的なところを回避している。俳優が役を演じず、ドラマもストーリーも否定し、フィクションを構築しない「演劇」は、自らが演劇と名のることの正当性を、けっして証明できないのではないか。

 観る価値のないものと、観ても何にもならないものと、演劇ではないものばかりを繁茂させている現代演劇の土壌の質は、1960年代後半から70年代の初めにかけて、唐十郎の演劇が社会に受容される時点で決定されてしまった。
 その受容の仕方が孕んでいた問題は、あるテキストに対する無理解に象徴されている。1968年の単行本『腰巻お仙』に収録されたエッセイ群「特権的肉体論」、特にその劈頭を飾る「いま劇的とはなにか」である。
 したがって、本稿はこれを中心的にとりあげる。ことあるごとに言及されながらも真っ当に読まれることだけはけっしてなかったこのテキストを、いま甦らせることができたとしたら、唐の演劇にもう一度、私たちにとっての可能性が宿るはずだ。

 ◆ 「特権的肉体」解釈の初期設定

 1960年代、それまで日本の現代劇とほぼ同義であった「新劇」に対抗して、「アングラ演劇」と呼ばれる小劇場運動が興隆した。その中心人物の一人とされる唐十郎の「特権的肉体論」は「アングラ演劇」の宣言としてとらえられ、標題に掲げられた「特権的肉体」なる語は、戯曲の言葉を中心とする近代演劇から俳優の身体を重視する現代演劇への転回を担う概念だと考えられている。
 日本の現代演劇と伴走してきた評論家の扇田昭彦は、「特権的肉体」を以下のように説明する(「肉体の演劇」)。

「特権的」というのは、当時、唐が傾倒していたフランスの作家・哲学者サルトルの小説『嘔吐』に由来する言葉で、唐の言う「特権的肉体」とは劇的に「完璧な瞬間」を作りうる肉体を意味する。(中略)はじめに戯曲があり、それを演出家が解釈し、それに従って俳優が演じる、というのが従来の近代劇のあり方だが、唐はその常識を逆転させ、演劇の大前提にあるのは無頼のエネルギーをもつ役者の肉体だ、と主張したのである。


 扇田はまた別のところで、「『特権的肉体』とは劇的な『完璧な瞬間』を作りうる 役者の 肉体ということになる」と述べている(『日本の現代演劇』、強調引用者)。扇田は「特権的肉体論」発表当時から、「特権的肉体」とはいかなる意味においてではあれ特殊な〈俳優の〉「肉体」のことだと認識していたようである。そして現在、唐十郎の「特権的肉体」について誰かが何かを語るとき、その言説には扇田の設定した前提が貼りついている。

 ◆ 「特権的肉体」は俳優の「肉体」ではない

 しかし、唐十郎の初期からの最良の理解者であった扇田昭彦によって初期設定された「特権的肉体論」の解釈は、まぎれもなく誤読である。

 そもそも、ジャン=ポール・サルトル『嘔吐』をまともに読んだとしたら、「特権的肉体」が俳優の「肉体」だなどと思えるわけがないのだ。
 『嘔吐』において、「特権的肉体」の典拠となった「特権的状態」という語は、主人公とそのかつての恋人アニーとの会話の中に出てくる。
 「特権的状態」とはある種の例外的な状態である。その状態においては行うべきことや言うべきことは決められており、他の行為や言葉は禁じられている。そしてその厳しく定められた言動を実現したとき、「完璧な瞬間」が作り出される。
 この時点で、「特権的状態」や「完璧な瞬間」といった概念がすぐれて演劇的なものであることが理解されるだろう。実際アニーは演劇に出演することで「完璧な瞬間」を実現しようとしていたことがあった。だが完全に「芝居の中の人物になりきれなかった」ために、自分が「完璧な瞬間」の中に生きることはできなかったという。

 サルトルの『嘔吐』における「完璧な瞬間」とは、ある人物が完全に即自的に生きている奇跡的な時間として想定されるものであり、そのための必然性をあらゆる面で用意する条件が「特権的状態」と呼ばれているのである。
 演劇との類比でいえば、「完璧な瞬間」はいわば役との同一化に、「特権的状態」は台本や演出による制約に対応する。
 つまり「特権的状態」は概念の布置として、演劇において俳優の「肉体」が占める場所とはまったく違うところにある。

 とすると、「特権的状態」に由来する唐十郎の「特権的肉体」が、本当に俳優の「肉体」のことなのか、非常に疑わしいといわねばなるまい。唐は明治大学の卒業論文でサルトルを扱い、サルトルの概念「シチュアシオン」にもとづく状況劇場という名の劇団を率いていたわけだが、そんな唐が『嘔吐』におけるきわめて読み取りやすい概念布置を誤読していたと考えない限り、「特権的肉体」を俳優の「肉体」とみなすことはできないのだ。

 「特権的肉体論」の中で最も直接的に「特権的肉体」の概念を説明している「いま劇的とはなにか」は、韜晦をきわめるテキストである。これまで「特権的肉体論」の意義を云々してきた論者たちは、このテキストから首尾一貫した論旨を読み取ることは不可能だと判断したうえで、扇田昭彦の設定してくれた解釈の枠組みを参照して満足したのだろう。しかし、テキストはあくまで自力で読まねばならない。少なくともそう試みねばならない。

 ◆ 本稿の構成

 本稿において私は、まず第2節で「いま劇的とはなにか」に〈何が書かれてあるのか〉をただ読んでゆく。そこで読み取った内容をもとに、第3節では唐十郎の考える演劇の体制のあり方を、第4節では唐の演劇と社会との関わりを論じる。そして第5節で、「特権的肉体論」の誤読が現代演劇の閉塞を準備してしまったことを説き明かし、唐のテキストを甦らせたときにどのような可能性が生まれてくるのかを述べたいと思う。


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