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zoom RSS イプセン『人形の家』について

<<   作成日時 : 2016/12/17 23:47   >>

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ヘンリック・イプセン、矢崎源九郎訳『人形の家』(新潮文庫、1953年)

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 ヘンリック・イプセンの作品の中でおそらく最も名高い『人形の家』は、1879年の発表当時から、主人公のノラが夫と子どもたちを捨てて家を出る結末が取り沙汰されてきた。自分を「人形」のように扱ってきた夫と縁を切るのみならず、何の罪もない子どもたちまで置き去りにする結末のノラの過激さは、多くの読者や観客(ときには演じ手)の拒否反応を引き起こしながら、女性解放運動の旗印のようにとらえられ、人口に膾炙した。『人形の家』を読んだことも観たこともない者でも、「ノラが家を出る」という結末は知っている。

 しかし、なぜノラは結末で家を出るのか。このように愚鈍に問うてみるとき、答えることは意外に困難である。ここでは、「家にいるかぎり、人形のような存在でしかいられないから」などといった答えには、満足しないことにしよう。なぜならそのような答えは、『人形の家』という題名だけ知っていれば――つまり作品の内容を理解しなくても――出すことができるものだからだ。結末の意味を知るためには、作品全体を見通さなければならない。

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   1  愛という取引/秘密という貸付

 『人形の家』は、クリスマス・ツリーと金の支払いとマクロンからはじまる作品である。冒頭にあらわれるこれらのモチーフが、作品の主題を示している。

 クリスマス・ツリーは、飾りつけがすむまで「うまく隠しておく」必要があるものであり、秘密という主題を象徴する。この秘密は、しかるべきときに明かすことで相手を驚かせ、ノラに満足をもたらすことが期待されるものである。この秘密の楽しみは、夫ヘルメルから隠れてノラが食べるマクロンに象徴される。

 『人形の家』のストーリーは、ノラの秘密をめぐって展開される。ノラの秘密とは、ヘルメルの命を救うイタリア旅行のためにクログスタットという男から借金をしたことと、その借金の際に証書に父の名を偽署したことである。この作品の主題である秘密には、金が関係しているのだ。

 秘密と金との関係は、作品内事実の水準にとどまらず、ひとつのアナロジーを形づくっている。そのことは、ノラと友人リンネ夫人の以下の会話からわかる。

リンネ夫人 この話はこれからもご主人にはなさらないおつもり?
ノラ (考えこむように、半ば微笑しながら)そうね――多分いつかはね、――何年かたって、あたしが今のように奇麗でなくなった時にね。〔中略〕あたしの言うのはね、あの人が今のようにあたしのことを大騒ぎしてくれなくなった時のこと。つまり、あの人の前であたしが踊りを踊っても、仮装をしても、お芝居の台詞を言っても、ちっとも、嬉しがらなくなった時のことよ。そんな時に、何か取っておきのことがあるといいでしょう――(話を切って)まあ、ばかばかしい! そんな時なんて来やしないわ。


 つまりノラにとっては、秘密とは貸付のようなものなのである。それはいざというときには取り立てることができる。しかしノラは、ヘルメルとの間に愛があるかぎりは、秘密を明かすつもりはない。ノラはヘルメルへの愛のために秘密を守っているのである。ノラにとって、愛と秘密はセットになっている。秘密という貸付を取り立てずにいることが、ノラの愛なのだ。

 この愛と秘密のために、ノラは日常的に演技し、嘘をついている。ノラは、ヘルメルの求める「ヒバリさん」「リスさん」「のらくら鳥」を演じる。ヘルメルの命を救うために主体的に行動した経験をもつノラにとって、そのような役を振られることは不本意であり、いつかヘルメルに「こん畜生!」と言ってやりたいと思っている。しかしノラはヘルメルを愛しているがゆえに、秘密を明かさず、不満を抑圧して演技してみせる。また彼女は、前年のクリスマス前には借金の返済のために内職をしていたのだが、ヘルメルにはクリスマス・ツリーの飾りつけをしていたと嘘をついた。これに類する嘘はほかにも多くあるのだろう。つまり、秘密という貸付は、まるで利子のように演技と嘘を生んでいくのだ。

   2  ノラの不安


 秘密の主題が最初に展開するのは、第一幕後半でクログスタットがノラを脅迫する場面である。そこでクログスタットは、ノラの秘密にしている偽署に関して「わたしも以前にこれとそっくり同じことをしたんですよ。そのおかげで、わたしの社会的な地位をすっかり失ってしまったんですが」と言い、「こんどわたしが突き落される時には、あなたもお仲間ですからな」という言葉を残して去る。

 この言葉を聞いたあと、ひとりで「いいえ、そんなはずはないわ!」「いいえ、そんなことのあるはずがないわ!」とくり返すノラは、ほとんど強迫神経症である。彼女は必死で不安を抑圧しようとする。ここで「そんなはずはない」と否認される不安とは、表面的には、クログスタットがノラの秘密の借金と偽署を公にすることであろうが、それと同時に、「自分はクログスタットと同じである」という強迫観念がノラに植えつけられている。これらの不安と強迫観念から、彼女は以後、より積極的に演技をしていくことになる。

 次の場面でノラは、何でもないふうを装いながら、ヘルメルに「あのクログスタットさんの事件て、ほんとうにそんなにひどい事なんですか?」と問う。ヘルメルがこれを否定してくれれば、ノラは自分の偽書についても、何でもないことだと安心できただろう。しかしヘルメルは、「自分の犯した罪を白状して、刑罰を受け」なければ正しい人間に立ち直れず、「道徳的に破滅」すると答える。そして、「小細工や策略を弄して、法律の網をくぐりぬけ」る人間のまとう嘘の空気は、病毒を家庭生活に持ち込み、とくに子どもたちを汚染すると言う。

 これを聞いたノラは、ひとりになったときにまた「そんなことはない。そんなわけはない。そんなはずがあるものですか」とくり返し、強迫的な不安を抑圧しようとするが、ここでは強迫観念の内容が変化している。ノラが恐れるようになったのは、秘密から生まれる自分の嘘と演技が、子どもに悪影響を与えることである。『人形の家』の第一幕は、この不安と葛藤をセッティングするためにあったといってよい。以後、ノラは子どもたちから距離を取り、いざというときには家を出て自殺することすら考えるようになっている。

   3  奇蹟を止めるために奇蹟を待つ

 第二幕では、ヘルメルからの免職通知書を受け取ったクログスタットが、ノラの秘密を明かす手紙を郵便受けに入れる。『人形の家』の後半のストーリーは、「この手紙をヘルメルに読ませないために、ノラがタランテッラを(二度)踊る」とでも要約できようか。タランテッラとは、イタリアのタラント地方発祥の踊りで、毒蜘蛛に刺された人間の苦しみを表現するものとも、解毒するためのものともいわれる。この踊りは、秘密を守ろうとあがくノラの強迫神経症的な姿の象徴である。そしてタランテッラが時間稼ぎでしかないことは、ノラ本人がよくわかっている。

 ノラは何のために時間稼ぎをしているのだろうか。ある時点までは、クログスタットが手紙を回収してくれる可能性はあるが、ノラはそれにあまり期待していない。ノラは、自分が待っているのは「奇蹟」だと言う。じつはこれは正確ではない。ノラは「奇蹟」が起こるだろうという確信を得られる瞬間を待っている。

 「奇蹟」とは何か。それは、キリストの磔刑にも比せられるようなヘルメルの行為である。ヘルメルがノラの秘密を知ったうえで代わりに偽署の罪をかぶり、社会的な死を引き受けることが、ここでは「奇蹟」と呼ばれる。つまり、夫婦のうちの一方が他方のために死ぬことが、愛の「奇蹟」なのだ。それは「どうしても起ってはならない事」であるが、ノラはそれを「恐れながらも望んで」いる。ノラは、ヘルメルがノラのために命を捨てるだろうという確信さえ得られれば、その「奇蹟」が起こることを防ぐために、家を出て自殺するつもりなのである。つまりノラが待っているのは、自分が自殺に踏み切れるだけのきっかけを与えてくれるものなのだ。

 ノラは人生の最後に、秘密という貸付の精算を望んでいる。相手がその支払いを申し出ることを望んでいる。そのうえで、相手からの支払いを受け取らずに死んでいくこと(貸し逃げ)が、彼女にとって理想の愛の形なのである。そして第三幕でヘルメルは言う。

――わたしはときどき思うんだがね、恐ろしい危険がお前の身に迫ってきて、そのためにわたしが命も財産も何もかも投げ出して、お前を救うというようなことにでもぶっつかってみたいと思うんだ。


 これこそ、ノラの待っていた「奇蹟」の確信をもたらす言葉である。だからこそこの言葉を聞いたノラは、「あなた、そのお手紙をごらんなさい」と言う。

 だが、いよいよ秘密が知ったとき、ヘルメルはどうしたか。ノラが「あたしの罪をしょってくださってはいけません」と言うのに対し、ヘルメルは「道化芝居はよせ」と言う。愛のために死のうとするノラの本気の覚悟を、演技だと決めつけるのである。このことからノラは、愛のためにと信じて演技と嘘を積み重ねてきた自分の結婚生活が、虚妄でしかなかったことに気づいてゆく。ノラとヘルメルとの間では、愛という取引が成立していなかったのだ。それを知ってしまったノラは、ヘルメルとの生活の「総決算」(これは会計用語である)を行ったあと、家を出ることになる。

   4  ハッピーエンドと絶望のあいだ

 ノラが家を出る結末を、どのように解釈するか。『人形の家』の第三幕の構成が、そのことを考える手がかりになる。

 第三幕は、リンネ夫人とクログスタットの場面からはじまる。ここでこのふたりは、少々都合がよすぎるように感じられるほどのハッピーエンドに到達する。

 また、第三幕の中盤では、ランクが絶望的な死を迎えるであろうことが示される。彼の死はまったく無意味な死であり、これ以上絶望的なことはありえないほどの結末だといえる。

 ノラのストーリーは、こうして提示されたふたつの極、ハッピーエンドと絶望的な結末の、いずれの側にも振れる可能性をもっている。ノラが「もう子供たちにも会えないのだわ」と言って出ていこうとすることには、観客は絶望的な死による結末を予想するだろうし、ヘルメルがクログスタットからの2通目の手紙を読んだ時点では、観客は強引なハッピーエンドを期待するだろう。

 しかし、ノラのストーリーは最終的に、絶望的な結末もハッピーエンドも、ともに拒絶する。前者は現実に対する敗北でしかなく、後者は現状を肯定することでしかないからだ。ノラが家を出ていく結末は、現実を変革する可能性を示すものにほかならない。

 イプセンは、青年時代からウジェーヌ・スクリーブのウェル・メイド・プレイを批判しながら、その影響からなかなか逃れられなかった。しかしこの『人形の家』では、ウェル・メイドなハッピーエンドに収束しうる筋立てを巧妙に構築したうえで、それを最後にノラに突き崩させている。ノラは、ハッピーエンドで完成していたはずのウェル・メイドな『人形の家』を破壊して、家を出るのである。この破壊にこそ、イプセンの劇が「リアリズム」と呼ばれることの意味を見出すべきではなかろうか。

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