documents

アクセスカウンタ

zoom RSS 吉本隆明「詩とはなにか」要約(1)

<<   作成日時 : 2017/04/01 19:39   >>

トラックバック 0 / コメント 0

吉本隆明「詩とはなにか」要約
初出 「詩学」1961年7月号
テキスト 『詩とはなにか』詩の森文庫、2006年

第1節 「ほんとのこと」の妄想

画像


 1−1 世界を凍らせる「ほんとのこと」


これまで自分は無自覚に詩作をしてきたが、今、詩作の過程に意識的・理論的な根拠を与えたい。

自分は「廃人の歌」(1952)という詩の中で、「ぼくが真実を口にすると ほとんど全世界を凍らせるだらうといふ妄想によつて ぼくは廃人であるさうだ」との一節をかいたことがあるが、少なくとも『転位のための十篇』(1953)以後の自分の詩作を支配したのは、この妄想である。
自分にとって詩とは、世界を凍りつかせ、社会の対立や差別を無化するような「ほんとのこと」を口にする行為である。

年少のころから自分は、社会に馴致された「慣習的な精神」「素直で健全な精神」をもてなかった。
「素直で健全な精神」は社会の主流を占め、〔自分のような〕そうでない精神の持ち主は傍流にならざるをえない。
時代が戦前・戦中から戦後に変わっても、そのことだけは変わらなかった。
だから戦後の時代の中でも、「ほんとのこと」を口にしたら世界が凍ってしまうという自分の妄想は、ますます強固になった。

現実の社会では、「ほんとのこと」は流通しない。
そのような現実社会の抑圧を、「ほんとのこと」を吐き出すことで解消しようとする営みが、詩の本質である。
だが、一時的に解消したとしても、また社会から抑圧され、「ほんとのこと」を吐き出したい意識は再生産されてしまう。
それゆえに、詩は一度かかれただけでは終わらず、つくりつづけられることになる。

自分は詩をかかない間も、批評文によって「ほんとのこと」を吐き出してきた。
詩は、内発的にこころの中の「ほんとのこと」を吐き出すものであり、それに対して批評文は、外的な事実に反応するこころの中の「ほんとのこと」を吐き出すものである。
自分にとって詩とは、現実の社会で口に出せば全世界を凍らせるかもしれない「ほんとのこと」を、かくという行為で口に出すことである。

 1−2 詩の本質は意識の外化

自分以外の詩人や批評家や哲学者たちが、詩をどう定義するかを参照してみよう。

萩原朔太郎の論では、詩の精神の本質は「現在(ザイン)しないものへの憧憬」であり、詩とは「実に主観的態度によって認識されたる、宇宙の一切の存在」である。
この説は、詩作の際に誰もが感じている、現実との疎隔感を指し示すものではないだろうか。

中村光夫の論では、詩の本質は歌であり、言葉以前の「叫び声」である。
この説は、プリミティブな叫びをおさえつける社会の抑圧を指摘しているのではないか。

マルティン・ハイデッガーの論では、人間の現存在は根底において「詩人的」なものであり、詩は現存在が歴史を担う根拠である。
この説は、人間が現実の社会の中で世界を凍らせるような「ほんとのこと」を内面に抱いてしまうことの必然性を述べているのではないか。

朔太郎・中村・ハイデッガーは、それぞれ異なる場所に立ち、詩の異なる部分を見ている。
そのため3人は違った詩観をもっているが、本質に立って詩を見れば、これらの部分的な見方を、より普遍的な理論に統合することができるはずだ(それが自分の理論である)。
朔太郎・中村・ハイデッガーは、詩をまるで自分たちの意識の外に独立してあるもののように見ている。
しかし本質的にいうと、詩とはわたしたちの意識〔「ほんとのこと」を口にしたい意識〕の外化されたものである。
〔そのことをわかっているため、自分は3人の詩観に脈絡をつけて説明することができるのだ〕

 1−3 「じっさい的態度」と「幻想的態度」

自分はなぜ、「ほんとのこと」を口に出すと世界を凍らせるかもしれないという妄想をもったのか、考えてみる。
おそらく年少のころ、「これが『ほんとのこと』だろう」と思い込んだことを口にするたびに、まわりの人の表情が凍りついたのだろう。
そのような体験のくり返しから、「『ほんとのこと』を口に出すと、自分が属する小社会が住みにくくなる」「大社会に出ても、事情は同じだろう」とわかっていった。
そして自分は、「『ほんとのこと』は言わずに我慢しておくのが一番だ」「そのうち『ほんとのこと』を口に出したいなどという欲求は消えてしまうだろう」と考えたのだが、予想に反して、「ほんとのこと」を口に出したい欲求は消滅せず、むしろ強まっていった。

その「ほんとのこと」とは具体的には何なのか、直接述べることはできない。
ただ自分は、「ほんとのこと」を口に出したいと思うとき、自分を現実社会の関係の外に立たせている。
「じっさい的」な見方をすれば、現実社会の外に立つことなど不可能だ。
しかし、「じっさい的態度」に反する「幻想的態度」であるからこそ、「ほんとのこと」を口に出したいという欲求は、現実社会の力によっては消滅させられないのである。

「じっさい的態度」としては、〔もし世界を凍らせる「ほんとのこと」があったとしたら〕この自分もまた、誰かが「ほんとのこと」を口に出したときには表情を凍らせるような、現実社会の中のひとりの存在にすぎないと見るべきだ。
わたしたちが現実社会から何かをつかみだすときは、このような「じっさい的態度」と「幻想的態度」の間の場所からつかみ出しているのである【註01】。

【註01】「じっさい的態度」は〈現実性〉(下部構造)に、「幻想的態度」は〈幻想性〉(上部構造)に対応するものと見ることもできる。このブログの「〈本質性〉の思想家、吉本隆明」など参照。

 1−4 妄想自体と意識の外化との区別

自分は、自発的なこころの働き〔自己表出的意識〕によって、「ほんとのこと」を妄想として意識に固定する。
そして詩作とは、自分の自発的な意識〔自己表出意識〕を、かく行為によって外化することである。

注意せねばならないが、「ほんとのこと」を口に出せば世界が凍ってしまうという妄想は、必ずしも自分に固有なものでも、詩をかくことに固有のものでもない。
詩をかかない多くの人々も、そういう妄想はもっていて、それを実生活の中で処理している。
妄想をもつことと、その妄想を詩作によってその都度消滅させることは、別の問題なのだ。
そして詩の本質は、あくまで詩をかくという行為、あるいはかかれた詩の中にある。

ただ、誰でも詩をかくときは、自分の妄想とかくことを一元的に結びつけて考えるものである。
たとえば朔太郎もハイデッガーも、詩人が現実から抑圧されていることと、詩をかく行為やかかれた詩を、一元的に結びつけてしまっている。
そのような混同は、詩をかくということを主体的に受け止めるかぎり、やむをえないことだ。

こういった端緒をめぐる問題から、次第に詩の実情況へ入っていき、必要に応じて詩の本質に立ち返りながら、はっきりとした仕方で詩の全体へ接近していこう。


▼吉本隆明「詩とはなにか」要約 目次
・第1節 「ほんとのこと」の妄想
第2節 詩の発生(意識の自己表出) ←NEXT
第3節 散文と詩(言語の時代的水準と励起)
第4節 詩的喩(意味とイメージの「当り」)
第5節 詩と現実

テーマ

関連テーマ 一覧


月別リンク

吉本隆明「詩とはなにか」要約(1) documents/BIGLOBEウェブリブログ
文字サイズ:       閉じる