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zoom RSS 山田晶『アウグスティヌス講話』要約

<<   作成日時 : 2017/08/04 10:31  

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山田晶『アウグスティヌス講話』(講談社学術文庫、1995年)
(原本 1986年)

【年表】

313 ★ミラノ勅令 
 ローマ帝国がキリスト教を公認。
325 ★ニケーア公会議(最初の公会議)
 キリスト教の正統を確認。
354 アウグスティヌス誕生
 北アフリカのタガステにて。
 父パトリキウス(異教徒)、母モニカ(キリスト教徒)。
370 カルタゴに留学
 → 女性との出会い、同棲。
372 息子アデオダートゥス誕生
373 マニ教を信奉しはじめる
381 ★コンスタンティノープル公会議
 アタナシウス派の三位一体説が正統に。
382 アウグスティヌスはマニ教から離れる
383 ローマに移る
384 ミラノに移る
385 女性との別れ
386 キリスト教に回心
387 洗礼を受けキリスト教徒に
 母モニカの死。
 息子とともにアフリカへ、修道院生活
390 アデオダートゥス死去
391 アウグスティヌス、ヒッポの教会の司祭に
392 ★キリスト教国教化
 異端やほかの宗教を禁止。
396 アウグスティヌスは司教に選出される
397 『告白』執筆に着手
400 アウグスティヌス『告白』
410 ●ローマ略奪
 西ゴート族が西ローマ帝国のローマに侵攻、略奪。
 異教徒がキリスト教を非難する。
426 アウグスティヌス『神の国』
430 ●ヴァンダル人によるヒッポ包囲
 アウグスティヌス死去。

画像


【要約】

●第一話 アウグスティヌスと女性

偉大な宗教家の中には、女性との関係におけるドロドロした苦しみを、深く突き詰めて考えた人が多いのではないか。
アウグスティヌスが『告白』で述べている「放蕩」と、彼が前半生をともにすごした女性について考えてみる。

アウグスティヌスは若かりし日にカルタゴである女性と同棲し、子も作っている。
母とキリスト教の教会からの疎外を感じたアウグスティヌスは、女性と暮らし、異端のマニ教にも近づいた。
この女性との出会いは、アウグスティヌスの運命を決定した。
アウグスティヌスは女性を愛していたし、女性はアウグスティヌスを勉強させたよい人だった。
この女性との関係は「放蕩」とは呼べない。

やがてアウグスティヌスは、出世のために両家の娘と結婚することになり、女性と別れるが、空しさと肉欲からさらに別の女性に手を出してしまう。
この経験がアウグスティヌスにとっての最大の心の傷になり、のちに『告白』を書く動機になったのではないか。

すべてが空しくなったアウグスティヌスは、キリスト教の教会に再接近し、回心する。
その回心とは、キリストの助けによって肉欲を振り切り、「貞淑の女神」たるかつての女性と、祈りにおいて再会することだった。
神の恩寵が、肉欲からアウグスティヌスを救った。

アウグスティヌスが『告白』を書きはじめたころには、彼に決定的な影響を与えたあの女性は、亡くなっていたのではないだろうか。

●第二話 煉獄と地獄

よいことをした人は死後天国(よいところ)へ、悪いことをした人は死後地獄(悪いところ)へ、という発想は普遍的なものだ。
しかし、キリスト教には煉獄というものがある。
煉獄の思想的根拠は、「生きているうちに完全には償いきれなかった罪を、死後に浄化する必要がある」というものである。
煉獄の聖書的根拠については、直接「煉獄」とは書かれていないが、煉獄のようなものがあると解釈できる箇所がある。
煉獄の思想的意味は、「煉獄はこの世界と同じく、終末までの時間に存在している。煉獄の魂は、今私たちと同時に苦しんでいる。だから祈りによって彼らと連帯しなければならない」というものである。

一方、地獄の魂に関しては、救いを祈ることは無駄であるとされる。
それではあまりに酷ではないか。
地獄と煉獄を分ける思想に関しては、もともと反対意見も多かった。
反対意見は、「地獄を煉獄に還元する考え方」と、「煉獄を地獄に解消する考え方」に分けられる。
「地獄を煉獄に還元する考え方」によると、神のあわれみは無限であり、神に許されないほどの罪を犯せる人間はいない。だから救いのない地獄はなく、煉獄があるだけである。最終的にはすべての者が救われるのであり、地獄の永遠性は方便である。
しかし、この考え方はグノーシス的なものであり、キリスト教的に正しいとはいいがたい。
「煉獄を地獄に解消する考え方」によると、煉獄は存在せず、人間は死んだ時点で天国に行くか地獄に行くか完全に決まる。
この考え方でいくと、他人のための祈りは無意味になり、救済が個人と神だけの問題になってしまう。
地獄と煉獄を分けずに考えると、どちらにせよ問題が出てくるので、救いに至る可能性のある煉獄と、永遠に救われない地獄の、両方が必要である。

仏教では、地獄と煉獄が分けられていない。
一般に考えられている仏教の地獄は、キリスト教でいえば煉獄である。
ただし、仏教の地獄の中に、永遠の苦しみというキリスト教的な地獄が表現されているところもある。

キリスト教の酷すぎる地獄の存在には、ふたつの意味がある。
ひとつは、神の真実の愛を裏づける厳しさを示すこと。
もうひとつは、神に背くことすらできる人間の責任を示すこと。
地獄に行くのは、弱者に手を差し伸べなかった人と、真理の霊である聖霊を冒瀆した人である。こういった罪をまったく犯していないと断言できる人はいないだろうが、神の前に悔いて改めれば救われる。

仏教では地獄的なものと煉獄的なものが混在しているが、永遠の地獄が存在し、仏に救えない魂も存在すると考えられる。
その上で、「仏を念ずるならば救われる」という考え方があり、キリスト教的な救いに通じている。

現実の世界は煉獄だといえるが、これを浄化の試練ととらえれば、希望が得られる。また、ほかの魂との助け合いの中で生きていくことができる。

●第三話 ペルソナとペルソナ性

キリスト教の神は「人格神」すなわち「ペルソナ的」な神だといわれるが、これは「人間的」な神という意味でもないし、「人格として表象された」神という意味でもない。
このことを理解するには、「ペルソナ」という語が何を意味するのかをさぐらねばならない。

「ペルソナ」とはラテン語で、「(役者の)面」「役割・性格」「社会においてある役割を演ずる者としての人間」という意味である。

キリスト教の三位一体論では、三位一体を形づくる「父」「子」「聖霊」のそれぞれがペルソナとされる。
もともと、ニケーア公会議(325年)で「神はウシア(本質)においては一であるが、ヒュポスタシス(実体)においては三である」とギリシア語で定式化されたものを、西方教会が「ひとつのエッセンチアであって、三つのペルソナである」と表現した。

三位一体論では、父が子を生むことと、聖霊が父から発出することは間違いないが、聖霊の発出に子がどうかかわるかが問題になる。
三位一体の教理が定式化されたコンスタンティノープル公会議(381年)での「ニケーア・コンスタンティノープル信条」には、「父より出ずる聖霊」という表現がある。
東方教会ではこの表現をもとに、「聖霊は、父から子を通して発出する」と考えた。
これに対して西方教会では、「父と子とより出ずる聖霊」というふうにつけ足した表現を普及させた。

東方教会:父 → 子 → 聖霊(直線的)
西方教会:父と子 → 聖霊(逆三角形的)


この立場の違いは、父・子・聖霊を「ヒュポスタシス」ととらえるか「ペルソナ」ととらえるかの違いからきているのではないか。
「ヒュポスタシス」の概念は新プラトン主義のプロティノス(205-270)からとられており、「すべての根源である父が、『みことば』(ロゴス)としての子を生み、それを通して聖霊が発出する」という東方教会の三位一体解釈は、新プラトン主義に似ている(それは否定神学的な傾向にもつながる)。
西方教会の三位一体解釈では、「父が自分を理解して、自分の似姿である『みことば』としての子を生み出し、父と子との間の愛として聖霊が発出する」とされ、ペルソナ同士の間に「理解」と「愛」が生ずる。

西方教会の三位一体解釈を方向づけたのは、アウグスティヌスである。
アウグスティヌスは神の三位一体とのアナロジーで、人間精神の構造(精神・言・愛)をとらえ、自己の知(言)と自己の愛の相互作用が人間精神の深い自己認識をつくると述べた。
そのダイナミックな三位一体解釈が、西方教会に大きな影響を与えたのだ。

さて、キリスト教の神が「ペルソナ的」であるというのは何を意味するか。
それは、「神は3つのペルソナからなる」ということだけでなく、「神は人間にとって、ペルソナ的な理解と愛の関係を結ぶ相手である」ということを意味する。
ペルソナとは、「理解し、愛する主体」なのである。

●第四話 創造と悪

若きアウグスティヌスは、「もしも神が世界を創造されたのであるなら、何故この世界に悪が存在するのか」という疑問をもっていた。
キリスト教の教会が答えられなかったその疑問に、グノーシス的な答えを与えてくれたマニ教に、アウグスティヌスは一時期心酔した。
しかしやがてアウグスティヌスはマニ教から離れ、「自然悪は存在しない」「悪といわれるのは罪であり、罪とは人間が自らの意志で神に背くことである」と考えるようになった。
さらにアウグスティヌスは、「人間が善をなしうるのは、神の恩恵(恩寵)による」という恩恵論(恩寵論)に至る。
アウグスティヌスの恩恵論は、「恩恵か自由意志か」という問題ではなく、「信仰において、悪なる自己をキリストの中に殺し、キリストの恩恵によって善をなす」ということである。
神の創造はまだ終わってはおらず、さまざまな悪は善に転ぜられるべき課題としてある。
神は、悪をも善用できるほどに全能である。
道元の思想は、アウグスティヌスやキリスト教の思想と共通点がある。

●第五話 終末と希望

「終末」という言葉の世界的流行の背景には、不安がある。
昨今の不安は、対象のない実存的な不安とは違い、終末を対象とする神学的な不安になっている。
絶対的な終末とはこの世の終わりのことだが、それ以外に、ある時代の終わりという相対的な終末もある。

終末的な状況の中でありがちなのは、全体主義的な熱狂の中に身を投じる生き方と、今の瞬間の自分の生の充実に専念する個人主義的な生き方である。
しかし全体主義も個人主義も、神のみが知る終末の時を勝手に先取りしている点で、キリスト者にはふさわしくない。
キリスト者にあるべき態度は、いつ来るのかわからない終末を穏やかな心で待つことである。
待つことで、信仰と希望と愛が浄められ、ひとつのヴィジョンが形成されていく。
アウグスティヌスも、待つことで人類の歴史のヴィジョンを得た。
そのヴィジョンの中には、これまで見えなかった兄弟たちの姿が見えた。

●第六話 神の憩い

神の創造における7日目の休みを、人間とのアナロジーを手がかりに考えてみる。
人間にとっての日曜日は、「遊ぶため」か「休むため」にある。
しかし、神が休んだのは「遊ぶため」でも「休むため」でもない。
また神においては、働きと休みが交代しない。
神はたえず創造しつつ憩っており、創造の働きの背後に神の憩いがある。

人間にとっての休みの日とは、自由の日である。
神の憩いは、神の自由を示している。
人間が休みの日に享受する自由とは、神の自由なる生命の一部である。
憩いとは神の無限のエネルギーの源であり、そこから自由な働きがほとばしり出たのが創造である。

現代の人間は、時間的空白と空間的空白を持て余し、埋めようとする。
しかし空白・空間とは、神の憩い(エネルギーの源)が人間に与えられたものである。
これを正しく用いられれば、空間恐怖を克服できる。
心の中に神の憩いの空間をもって騒がしい世間に住み、社会を静かにしていくことから、本当の働きも生まれる。
神の憩いこそが、本当の働きのためのエネルギーを与えてくれるのだ。

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