【読書メモ】『合理的なものの詩学』第一章

加藤夢三
『合理的なものの詩学――近現代日本文学と理論物理学の邂逅』
ひつじ書房、2019年

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第一章 「科学的精神」の修辞学
―― 一九三〇年代の「科学」ヘゲモニー

はじめに

 1930年代の言説空間には、「科学」と「精神」を強引に結合した、「科学的精神」という表現が多く登場した。
 この章では、その「科学的精神」という表現が、どのような文化・社会情勢の中で生み出され、変転を遂げたのかが検討される。
 その検討によって、論壇・文壇・科学者共同体それぞれの論者たちが、「科学的精神」という表現を戦略的に用いようとしながら、言葉の力に引きずられもし、意図的でないレベルも含めて影響を与え合った様子を描き出すのが、加藤夢三の狙いである。

一 浮遊する「科学的精神」

 まずは、論壇における「科学的精神」が検討される。
 1930年代の日本では、産業の統制にともなって、科学振興の理念が国家政策の中核に据えられたことで、「科学」が権威をもった。
 もともと、東洋的・日本的な「精神」に対して、「科学」は西欧近代的なものとしてとらえられていたが、それらを結びつけた「科学的精神」という表現が、国威発揚のために利用されるようになった。
 一方、マルクス主義者たちは、唯物論こそ「科学的精神」であると主張し、ファシズムが「科学的精神」を標榜することを批判した(ただし、「合理」と「非合理」を弁証法的に統一しようとする言説は、ファシズムにからめ取られてしまう危険も孕んでいた)。
 それぞれの論者は、「科学」の権威と「科学的精神」という表現のあいまいさを自覚的に利用して、自分の政治的立場こそが最も「科学的精神」にかなっていると主張していた。
 意味内容の空転をも織り込んだそのような表現戦略を、加藤は「修辞学」と呼ぶ。

二 文学者と「科学的精神」

 次に、文壇における「科学的精神」が検討される。特に取り上げられるのは、自然科学の学術的知見(不確定性原理など)を文壇に導入することに意欲的だった、新感覚派の旗手・中河與一の言説である。
 中河は、最初は「科学」主義者だったが、「偶然文学論争」(1935年頃)を経て「精神」に傾斜したと考えられている。しかし、もともと中河の「科学」観には、「精神」論が内包されていたと加藤は指摘する。
 中河は、20世紀物理学の難解さを利用して、「科学」の権威を「精神」の側に横領しようとしていた。その態度は、「科学的精神」の意味内容をファシズム寄りに変えていく同時代の論壇と、共犯的なものであったといえる。

三 科学者共同体と「科学的精神」

 「科学」の権威が「科学的精神」という形で、論壇や文壇によって恣意的に横領されていく風潮に対して、科学者たちはどのように反応していたのか。
 1930年前後、それまで輸入されてきた自然科学の学術的知見を大衆化するべきだという声が高まった。その流れを象徴する雑誌が、理論物理学者の石原純(1881~1947年)らによって創刊された『科学』である。加藤は、雑誌『科学』が、「科学」と「精神」の結びつきを積極的に引き受けたと指摘する。
 科学者たちは、「科学的精神」という表現を、おおむね好意的に認めていたのである。
 その結果、もともと学術的なものであったはずの「科学」の権威は、社会・政治を語る尺度に変わってしまった。

四 「偶然文学論争」の混成的位相

 「科学的精神」が大きな問題となった事件として、「偶然文学論争」がある。
 1935年、中河與一が「偶然文学論」を提唱した。その発想は加藤の要約によると、「日常生活における生き生きとした「偶然」性を再考するための契機として不確定性原理をとらえ返す」ようなものだった。
 これに対して、「偶然」や「不確定性」をマルクス主義の側に囲い込みたいと考える左派論壇が批判を加え、「偶然文学論争」が勃発する。中河と左派論壇は互いに、相手の「科学的精神」の欠如を攻撃した。
 「偶然文学論争」で問題になったのは、「偶然」や「不確定性」とマルクス主義との関係である。左派論壇は、マルクス主義は「偶然」や「不確定性」をもカバーできる「科学」であると主張し、そのことに理解を示さない中河を論難した。
 量子力学を焦点とする「偶然文学論」を批判する際、学術的な正しさを問題にするとしたら、その判定は科学者たちに任せざるをえなくなる。マルクス主義陣営はそれを避けるために、「科学的精神」を問題にしたのだと、加藤は指摘する。
 「偶然文学論争」が「科学的精神」をめぐって展開されたことは、「科学」の問題と「精神」の問題を混淆させてしまうような言説環境の成立に寄与し、「科学」が論者の世界認識と結びつけられる時代を招いた。

おわりに

 この章で明らかにされたのは、「合理」的なものであるはずの「科学」を、「非合理」な「精神」と結びつけることで、イデオロギーを支える権威にしようとする動きが、左右両陣営に存在したということである。
 加藤は、「国粋主義イデオロギーは「非合理」的な情念を賛美し、良識的な知識人たちは「合理」的な思考によってそうした時局に立ち向かう」といった図式では、「科学」をめぐる昭和初期の言説空間のダイナミズムはとらえられないと主張する。


***目次***

序章 思考の光源としての理論物理学
第一章 「科学的精神」の修辞学
第二章 「現実」までの距離 ←次はこちら
第三章 ジャンル意識の政治学
第四章 新感覚派の物理主義者たち
第五章 観測者の使命
第六章 「ある唯物論者」の世界認識
第七章 「合理」の急所
第八章 多元的なもののディスクール
第九章 「怪奇」の出現機構
終章 パラドックスを記述するための文学的想像力
補論ⅰ 「存在すること」の条件
補論ⅱ 自己言及とは別の仕方で

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