【読書メモ】『合理的なものの詩学』第三章

加藤夢三
『合理的なものの詩学――近現代日本文学と理論物理学の邂逅』
ひつじ書房、2019年

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第三章 ジャンル意識の政治学
―― 昭和初期「科学小説」論の諸相

はじめに

 「科学小説」というと一般には、サイエンス・フィクションと同一視される。サイエンス・フィクションが日本で発展したのは、戦後になってからのことである。しかし、西欧由来のサイエンス・フィクションとは違った形の「科学小説」は、戦前から存在していた。
 「科学小説」が文学史的に忘却されたのはなぜか。――このような問題意識のもとに、この章では、草創期の「科学小説」をめぐるジャーナリズムの言説が検討される。
 昭和初期の文壇・論壇では、「科学小説」というジャンルが成立しうるかどうか、という議論が交わされていた。その議論を取り上げて考察することで、当時のジャーナリズムの中で「科学」と「文学」が接触した交点をとらえ直してみようというのが、加藤夢三の狙いである。

一 「探偵小説」のなかの「科学」

 戦前の「科学小説」は、「探偵小説」の一種だと考えられていた。
 19世紀末に生まれた「探偵小説」が、本質的にいって近代科学的な考え方を基盤とするものであることは、よく知られている。そして日本では、「探偵小説」というジャンルは、自然科学の知見の受容とともに台頭した。1920年代には、近代科学を駆使できる能力が、「探偵小説」の探偵の条件とみなされるようになっていた。
 本来「探偵小説」に必要とされる「科学」とは、❶(一般的な)論理性としての「科学」だった。しかしそれは、❷(特殊な)学術的知見としての「科学」と混同されていったと、加藤は指摘する。その混同の結果、戦前日本で「探偵小説」のジャンルは肥大し、その中に「科学小説」をも含んでいたのである。

二 〈自然科学=人間科学〉のパラダイム

 大正末期から昭和初期にかけての文学者たちの自然科学への興味は、身体と精神の領域に集中していた。そして昭和初期の「探偵小説」では、理論物理学などよりも精神科学や神経生理学が重視されていた。
 当時の文壇に、加藤は〈自然科学=人間科学〉という思考の枠組みを見る。そして、人間の身体や心理を「科学」によって分析的に把握しようとする営みが、ときに身体や心理の病理的な逸脱を垣間見たいという欲望のほうへも流れ、「エロ・グロ・ナンセンス」的な風潮と結びつきもしたことが論じられる。
 「科学小説」にも、物理学的な「科学」を扱うものよりも、身体や心理の異常性を主題にしたものが多かったという。それゆえ「科学小説」は、センセーショナルな猟奇趣味のジャンルとして、通俗小説の中でもとりわけ価値の低いものとみなされていた。
 〈自然科学=人間科学〉という思考の枠組みの中では、「科学」は❶「探偵小説」を支える基盤(論理性)であると同時に、❷「探偵小説」に猟奇的な娯楽性を与える要素でもあったのだ。

 本書で全体として論じられるのは、昭和初期の文学者たちが、20世紀の理論物理学などを受容することで、新しい「現実」認識を得た(あるいは模索した)ということである。しかし「科学小説」については、加藤は次のように述べている。

戦前期までの「科学小説」は、それこそ西欧のSFのように、既存の認識制度を「異化」するような準拠枠としての「科学」をとらえるような発想が、構造的に芽吹かない状況となっていた。


三 「純粋」な「科学小説」

 特に1930年代以降、「科学小説」と呼べるような小説がないことを嘆きつつ、それが将来登場することに期待するような言説(「科学小説」待望論)が、大量に現れた。
 当時、すでに「科学」的な要素を主題とした「探偵小説」は多く書かれていた。しかし、「純粋」な「科学小説」というジャンルが想像され、その成立可能性が説かれていたのである。加藤はこれを、1920年代から「探偵小説」の領域で行われていた「純粋な探偵小説」と「純粋ではない探偵小説」との類別の「再生産」だと指摘する。
 昭和初期から1930年代にかけての「科学小説」論は、「近い将来それが創出されるだろう」という漠然とした期待を共有していた。しかし、その「科学小説」とはどういうものなのかという具体的な範例は、はっきりと示されてはいなかった。

四 「懸賞科学小説」のゆくえ

 科学文化の普及に貢献した雑誌『科学画報』(1923年創刊)では、、1927年と1930年の2回にわたって、「科学小説」の創作が募集された。これはもともと、「探偵小説」とは違う「純粋」な「科学小説」を求めたものだったが、当初の期待に応えるような「科学小説」は集まらなかった。

おわりに

 この章で明らかにされたのは、「純粋」な「科学小説」に期待する言説が、皮肉なことに、「科学」と「小説」の結びつきを「探偵小説」へと囲い込む構造を強化した、ということである。

 ところで、この章の冒頭では、「科学小説」が文学史的に忘却されたのはなぜかという問いが掲げられていた。この問いへの答えは出たのだろうか。
 答えは明言されていないように見えるが、おそらく、次のようなことだろう。――現実に存在した「科学小説」は、価値が低いものとみなされており、それは「本当の科学小説」と認められていなかった。
 それにしても、現実に存在した精神科学・神経生理学的な「科学小説」が、言説空間の〈自然科学=人間科学〉という枠組みにはめ込まれたものであるならば、その同じ言説空間が、精神科学・神経生理学的ではない「科学小説」への待望論を多く生んだのは、どういうことなのだろうか。普通に読むとこのような疑問が出てくるのだが、そのあたりの事情に関しても、少し考察が書かれていてもよかったように思われる。


***目次***

序章 思考の光源としての理論物理学
第一章 「科学的精神」の修辞学 
第二章 「現実」までの距離
第三章 ジャンル意識の政治学
第四章 新感覚派の物理主義者たち ←次はこちら
第五章 観測者の使命
第六章 「ある唯物論者」の世界認識
第七章 「合理」の急所
第八章 多元的なもののディスクール
第九章 「怪奇」の出現機構
終章 パラドックスを記述するための文学的想像力
補論ⅰ 「存在すること」の条件
補論ⅱ 自己言及とは別の仕方で

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