【まとめ】加藤夢三『合理的なものの詩学』

加藤夢三
『合理的なものの詩学――近現代日本文学と理論物理学の邂逅』
ひつじ書房、2019年

 読書会でこの本を扱うことになったので、内容をまとめたレジュメを作るために、各章についてのメモをブログに載せます(何度も読みましたが、どうしてもある程度、批判的にならざるをえませんでした)。
 章ごとに記事を書いており、ここには目次のような形でリンクを載せておきます。

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序章 思考の光源としての理論物理学

 本書の問題意識や目的、方法が述べられ、全体の構成が示される。
 https://42286268.at.webry.info/202006/article_1.html


Ⅰ 文芸思潮と理論物理学の交通と接点

 昭和初期の日本は、19世紀までの近代物理学と、20世紀の現代物理学を、同時に受け入れた。そのことによって当時の言説空間に巻き起こったさまざまな議論が、この部では検討される。
 20世紀初頭、相対性理論や量子論の登場により、従来の自然科学が動揺すると、一般の人々の「科学」思想は、「物質主義」的なものから「精神主義」的なものに移った。「精神」と結びつくものとされていた「文学」は、さかんに「科学」と交わろうとするようになった。

第一章 「科学的精神」の修辞学
―― 一九三〇年代の「科学」ヘゲモニー


 1930年代、「科学的精神」という表現が、論壇・文壇・科学者共同体それぞれの論者たちによって戦略的に用いられ、独特な言説環境の成立にかかわったことが論じられる。
 https://42286268.at.webry.info/202006/article_2.html

第二章 「現実」までの距離
―― 石原純の自然科学的世界像を視座として


 大正から昭和初期にかけて、科学(理論物理学)と文学(短歌)の両分野で活躍し、同時代の文壇や論壇に科学的言説を浸透させるのに貢献した石原純(1881~1947年)の活動が跡づけられ、彼の示した自然科学的世界像(「現実」概念のとらえ方)の思想的意義が検討される。
 https://42286268.at.webry.info/202006/article_3.html

第三章 ジャンル意識の政治学
―― 昭和初期「科学小説」論の諸相


 昭和初期の文壇・論壇では、「科学小説」というジャンルが成立しうるかどうか、という議論が交わされていた。その議論を通して、当時のジャーナリズムにおける「科学」と「文学」の交点がとらえられる。
 https://42286268.at.webry.info/202006/article_4.html


Ⅱ  横光利一の文学活動における理論物理学の受容と展開

 この部では、1920年代から30年代前半において、「文学」と「科学」がどのように交錯したかを示すひとつの事例として、横光利一が取り上げられる。
 横光は、同時代の自然科学の学問的知見から影響を受けながら、自分の文学的方法論を構築した。彼は1920年代から30年代にかけて、認識論的な困難に直面したが、その困難を自然科学とのかかわりから検討することによって、昭和初期の論壇・文壇が理論物理学からどれほどの衝撃を受けたのかも知ることができる。

第四章 新感覚派の物理主義者たち
―― 横光利一と稲垣足穂の「現実」観


 同じ「新感覚派」とされる横光利一(1898~1947年)と稲垣足穂(1900~1977年)について、彼らの「現実」観(時間・空間認識)の違いが、理論物理学とのかかわりという観点から比較・検討される。
 https://42286268.at.webry.info/202007/article_1.html

第五章 観測者の使命
―― 横光利一『雅歌』における物理学表象


 1920年代から新感覚派として作家活動を行ってきた横光利一は、1930年前後、新心理主義へと移行したとされる。この「転回」がどのようなものだったのかをとらえるために、1931年の『雅歌』が分析される。
 https://42286268.at.webry.info/202007/article_2.html

第六章 「ある唯物論者」の世界認識
―― 横光利一『上海』と二〇世紀物理学


 同時代の科学思想に対して、横光利一がどのような批評的視点をもっていたかを見定めるため、長編小説『上海』(1928~1931年)が取り上げられる。
 https://42286268.at.webry.info/202007/article_3.html


Ⅲ モダニズム文学者と数理諸科学の邂逅と帰趨

 この部で検討されるのは、「合理」から「非合理」への逸脱という主題系である。
 具体的には、「「合理」的な秩序体系から「非合理」的なものが析出される」という逆説的なロジックに魅了された文学者たちの活動が扱われる。それらの活動は、それぞれの仕方で、同時代の科学と共振していた。
 
第七章 「合理」の急所
―― 中河與一「偶然文学論」の思想的意義


 中河與一は1935年前後に発表した「偶然文学論」の思想的射程を確かめるために、「偶然文学論」における量子力学の解釈を、同時代思潮の中に位置づけなおしながら検討する。
 https://42286268.at.webry.info/202007/article_4.html

第八章 多元的なもののディスクール
―― 稲垣足穂の宇宙観


 昭和初期の文壇の自然科学受容において、精神生理学などが主流だったのに対し、稲垣足穂は、理論物理学や宇宙物理学を重視した。このことから、〈いま・ここ〉に生きることの「必然性」や「決定論」的な宇宙観に縛られず、「可能性の世界」を追い求める足穂の姿勢を読み取る。
 https://42286268.at.webry.info/202007/article_5.html

第九章 「怪奇」の出現機構
―― 夢野久作『木魂』の表現位相


 1934年に発表された短編小説『木魂』を中心に、夢野久作の文学活動を考察することを通して、昭和初期の文壇に存在した〈「合理」が徹底されると、そこに内在していた「非合理」が出現する〉というロジックを抽出する。
 https://42286268.at.webry.info/202007/article_6.html

終章 パラドックスを記述するための文学的想像力

 「昭和初期の文学者たちが直面していた難題の核心はどこにあったのか」という問いを経て、「相対性理論や量子論が、文学者たちにとって重要な思考の光源となりえていたのはなぜか」という問いに答えを出そうとする。
 https://42286268.at.webry.info/202007/article_7.html


補論部

 この部では、現代の小説の中に理論物理学がどのような形で現れるのかを、「私」が「私」であること(の不確定性)という主題から論じる。

補論ⅰ 「存在すること」の条件
―― 東浩紀『クォンタム・ファミリーズ』の量子論的問題系


 東浩紀の長編小説『クォンタム・ファミリーズ』(2008~2009年)が、「ゲーム的リアリズム」の実践以上の批評性をもつ作品であることが主張される。
 https://42286268.at.webry.info/202007/article_8.html

補論ⅱ 自己言及とは別の仕方で
―― 円城塔『Self-Reference ENGINE』と複雑系科学


 円城塔の長編小説『Self-Reference ENGINE』(2007年)に、形式体系と自己言及性の問題にとらわれない、新しい可能性があることが主張される。
 https://42286268.at.webry.info/202007/article_9.html

おわりに

 割愛。

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