【読書メモ】『合理的なものの詩学』終章

加藤夢三
『合理的なものの詩学――近現代日本文学と理論物理学の邂逅』
ひつじ書房、2019年

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終章 パラドックスを記述するための文学的想像力

一 「経験」と「理論」の乖離

 昭和初期の書き手たちは、「科学の危機」や「数学の危機」(相対性理論、量子力学、ゲーデルの不完全性定理などが含意されている)に対して、格別な驚きと関心を示した。そのことは、人々が素朴に信じている「経験」を問い直し、「合理」的なものと「非合理」的なものとの境界を再設定しようという問題意識に関係していた。その問題意識はまた、「合理」への不信と「非合理」への憧憬につながっていった。
 昭和初期の知識人たちに大きな衝撃を与えたのは、「合理」の中から「非合理」が現れた(ように思われた)ことである。これは、「非合理」がもともと「合理」の「秩序体系」の中に含まれていたことを意味する(と解釈された)。
 加藤夢三によれば、「合理」自体の自己否定の運動から「非合理」が生じるという考え方は、「非合理」と「合理」をつながったものとしてとらえるような、戦時下の言説・思想へと受け継がれていくという(287~288ページ)。

ここにおいて、「合理」と「非合理」という対立図式を支えていた思考のあり方そのものが問いなおされ、「合理」から「非合理」への逸脱の仕方――あるいは「非合理」から「合理」への着地の仕方――が、時局における重要な思想的課題として改めて措定されることになる。図らずも、こうした「合理」と「非合理」の入れ子構造の理論的な源泉となっていたものこそ、本書で見てきたような二〇世紀における一連の展開にほかならなかった。そのことに鑑みても、一九二〇年代初頭における相対性理論ブームから、戦時下における「非合理」的なものの「合理」化にいたるまでの回路に、ある種の連続性を読み取ることは可能であろう。(下線引用者)


 このあたりから、論旨があやしくなってきているように思われるのだが、そう感じるのは私だけだろうか。
 引用箇所の第2文を見てみよう。まずは用語について。加藤は、「合理」の内部から「非合理」が生じるという構造を、「入れ子構造」と呼んでいる。「合理」と「非合理」が排他的ではない、という意味だろうが、構造の見立てとして、適切なものだとは思えない(「入れ子」だとしたら、「合理」と「非合理」が相似的なものでなければならない)。のちに提起する再帰性(自己言及性)の主題へとつなげるための、強引なイメージ操作である。
 次に、第2文の意味を考えてみる。この文が主張しているのは、「合理」と「非合理」を「排他的ではなく、つながったもの」としてとらえるような考え方が、二〇世紀物理学の展開(相対性理論や量子論)から生まれた、ということである。
 このような主張がありえないわけではない。しかし、「ほかならなかった」といえるほど、この主張の内容ははっきり証明されているだろうか。本書の各論は、この主張の内容を証明し(ようとし)てきているだろうか。私にはそうは思えない。
 また、第2文から第3文へのつながりは、単純にナンセンスである。証明できていない自分の主張に「鑑みて」、自分の主張の正当性を述べるというのは、循環にほかならない。論理の破綻・循環・飛躍を重要な主題とする研究論文が、論理の破綻・循環・飛躍をこうもあからさまに孕んでいるのは、重大な瑕疵なのではないか。

 ともあれ、加藤はここで、本書の最終目標となる問いを発する。それは、❶相対性理論や量子論が、文学者たちにとって重要な思考の光源となりえていたのはなぜか、というものである。そして、この問いを解くために、❷昭和初期の文学者たちが直面していた難題の核心はどこにあったのか、との補助的な問いを設定する。
 ❷を解くことで、❶の問いに答えようというわけである。たしかに、❷がわかれば❶もわかるかもしれない。では、加藤が出した答えは、どのようなものだったのか。

二 パラドックスはなぜ回避できないのか

 ここからの加藤の論述は、整理されておらず、また、思弁的にすぎるものだが、できるだけ意をくんでまとめてみよう。

 近代の知識人は、「近代化に伴う最先端の方法論(=「前衛」)の追究と、みずからの拠って立つ足場(=「伝統」)への自覚の乖離によって生じた、人びとの寄る辺のない閉塞感」(293ページ)に悩まされ、「不安」をおぼえるものである。
 そのような知識人の「不安」の延長線上に、「形式化」された秩序体系(「合理」)が、その内部に自壊の契機(「非合理」)を含むという問題がある。この問題は、バートランド・ラッセル(1872~1955年)が1902年に発見した「ラッセルのパラドックス」によって代表される。

 いちおう、「ラッセルのパラドックス」を説明しておこう(三浦俊彦『ラッセルのパラドクス』岩波新書、2005年を参考にする)。
 今、「自分自身を要素として含む集合」を考えると、「集合」の集合(「集合の集合」は「集合」である)、「抽象的なもの」の集合(「抽象的なものの集合」は「抽象的なもの」である)、「死なないもの」の集合(「死なないものの集合」は「死なないもの」である)……と、無数に考えられる。
 逆に、「自分自身を要素として含まない集合」を考えると、「人間」の集合(「人間の集合」は「人間」ではなく集合である)、「椅子」の集合、「虎」の集合……と、こちらも無数に考えられる。
 ここで、「「自分自身を要素として含まない集合」すべての集合」をRと定義し、このRについて考える。Rについては、(i)「自分自身を要素として含む場合」と、(ii)「自分自身を要素として含まない場合」が考えられる。
 (i) Rが「自分自身を要素として含む」と仮定する。すると、Rの中にRが含まれることになる。ここで便宜的に、「含むほうのR」(集合としてのR)と「含まれるほうのR」(要素としてのR)を分けて考えてみよう。含むほうのRは、「「自分自身を要素として含まない集合」すべての集合」と定義されているのだから、含まれるほうのRは、「自分自身を要素として含まない集合」でなければならない。これは仮定に反し、矛盾する。
 (ii) Rが「自分自身を要素として含まない」と仮定する。そのような集合Rは、「「自分自身を要素として含まない集合」すべての集合」Rの中に、要素として含まれなければならない。つまり、集合RはRを要素として含むことになる。これは仮定に反し、矛盾する。
 以上(i)(ii)より、「「自分自身を要素として含まない集合」すべての集合」は、「自分自身を要素として含む」と考えることも「自分自身を要素として含まない」と考えることもできない。

 ラッセルのパラドックスのポイントは、自己言及性にあると考えられており、加藤もこのパラドックスが「自己言及のパラドックス(決定不能性)」(291ページ)を導き出したこと(ゲーデルの不完全性定理を含意しているのだろう)に注目している。
 そして加藤は、「昭和初期の知識人たちを懊悩させていたのは、まさに〝ラッセルのパラドックス〟をどのように回避するべきかという問いであったとも言えるだろう」と述べる。
 これが❷の答えなのだろう。しかし、これはいったい、何をいっているのか。
 昭和初期、新感覚派などの洗練された「前衛」的な方法論が、「伝統」的に信じられてきた「経験」の領域から乖離してしまう、といったことは起こっていただろう。しかしそのことと、「ラッセルのパラドックス」や形式体系の自壊は、どう関係しているのか。自己言及性は何のかかわりがあるのか。

 次に、❶の答えを見てみよう。なぜ相対性理論や量子力学は、昭和初期の文学者たちの思考を触発したのか。
 おそらく加藤は、次のように答えたいのだろう。
 相対性理論や量子論といった20世紀の理論物理学は、「形式化」された秩序体系を自壊させる「自己言及のパラドックス」として、昭和初期の知識人たちに受け取られた。「合理」的な世界を内破して「非合理」という「外部」を示すものとみなされた相対性理論や量子論は、当時の文学者たちにとって、自分たちの「不安」のあり方を投影できるものであると同時に、〈いま・ここ〉という「経験」に縛りつけられた閉塞感を打ち破ってくれる可能性でもあった。
 しかし、形式化の徹底によって、秩序体系(「合理」)の「内部」に自己矛盾としての「外部」(「非合理」)が出現するというロジックは、戦時下には、「国体」の理念を中心とするナショナリズムを引き寄せてしまうことにもなった。

 アイデアとしては面白いところがある。しかし、論述が整理されておらず、あまりに雑であり、読み方によっては「20世紀の理論物理学が難しすぎたせいで、知識人の間に不安が生まれ、ファシズムが呼び寄せられた」というトンデモ理論として解釈することすら可能なほどである(私は最初、そのようなことが書かれているのだと本気で思って、この本を読んできたことを後悔した)。
 また、細かいことではあるが、「根拠律」という言葉の使い方がうまくない(矛盾すらあるのではないか)。


***目次***

序章 思考の光源としての理論物理学
第一章 「科学的精神」の修辞学 
第二章 「現実」までの距離
第三章 ジャンル意識の政治学
第四章 新感覚派の物理主義者たち
第五章 観測者の使命
第六章 「ある唯物論者」の世界認識
第七章 「合理」の急所
第八章 多元的なもののディスクール
第九章 「怪奇」の出現機構
終章 パラドックスを記述するための文学的想像力
補論ⅰ 「存在すること」の条件 ←次はこちら
補論ⅱ 自己言及とは別の仕方で

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